第8話 大切な道具

(わたしもやーすもっ!)


 額をつたう汗を手の甲でゴシゴシっとして、アンの隣に向かう。

 座ろうとして座面を上から覗きこむと、よく見るとくずした文字で「にんげん専用です。はずれびとは利用できません」と書かれていた。

 わたしは見間違いかと思って、ぱちぱちと瞬きした。でも文字は消えてなくならなかった。


(はあ〜〜?ありえないっ、せっかくベンチがおしゃれなのに台無しじゃん!)


 こんなラクガキしたのだれっ⁉︎


 不満が飛び出しそうになって、わたしはあわてて口を手でふさいだ。お説教したくても、アンの前で口に出すわけにもいかない(わたしがはずれびとだってバレちゃう……)ので、わたしはあふれる力にまかせて、ドカッと腰を下ろした。


(ラクガキの言うことなんてだれが聞くか!)


 そしたら案の定、「こらっ、ナナさん乱暴ですよ」ってアンに怒られた。せつな〜いっ。


 わたしがアンの隣に座ってぴったりと背もたれに寄りかかると、リリーさんがパーカーの上から腕をさすって、不愉快そうに眉を寄せた。


「私は近くで水を探してきます。おふたりはここで休んでいてください」


「ありがとうございます、リリー」


 両手を合わせて、わたしも感謝を伝えた。「ありがとう」よりも「ごめんなさい」という気持ちで道路に向かうリリーさんの背中をながめる。リリーさんが顔をしかめる原因には心当たりしかなかった。


「べたべたしますねー」


「そうだねぇ」


 わたしがおねがいした白波の渦は見るだけならとってもきれいだったけど、海水だから塩分が含まれていたの。だから魔法で服は乾かせたけど、からだじゅうに残った塩分がべたついて気持ち悪いんだよね……。


 わたしの魔法はなにかにおねがいをすることはできるけど、なにもないところからなにかをつくり出すことはできなくて。

 だから真水をつくってシャワーみたいに降らせることはできないんだ~。魔法も万能ってわけじゃないんだよね。


 木陰を通り抜ける風がわたしの肌をなでていく。その風でベンチに立てかけておいたホウキが足もとに滑り落ちたので、かがんで手を伸ばすと、耳のそばでカチッと軽快な音が鳴った。

 パッと振り返ると、困ったような顔をしてアンが自分の足を持っていた。さっきのスイッチを入れたような音は、アンの足についているピンが外れる音だったの。


「すみません、見苦しいかもしれませんが。義足も海水を洗いながして乾燥させないといけないんです」


「いやっ、見苦しいとか、そんなことない」


 わたしは言葉につまりながら本心を言った。けれど、アンが義足をつけていないところを初めてみたから、わたしはキュッと胸が苦しくなってしまった。


 アンの左脚は太ももの途中から下がなくて、断面はストッキングで隠れていた。アンが両手で持っている義足は人の足に見えるようにカバーがしてあったけど、よく見ると、銀色の金具がいくつかのぞいてゴツゴツとしていた。


 ――もし、自分の足がなくなったらどうしよう。


 頭をよぎった疑問に、わたしは底知れない恐怖を感じて、拾ったばかりのホウキをまた落としてしまった。もう一度手を伸ばしても、ホウキはうまく掴めなかった。


(わたしは魔法が使えるから、ホウキがどこにだって連れて行ってくれるかもしれない。けどアンは?義足はアンをどこまで支えられるの?)


 遠くまで歩いていけるわけじゃない。楽しいときにスキップだってできないし、大好きな海だってかんたんには泳げない。アンの足を見ていると、わたしの知らなかったアンのたくさんの苦労が頭に浮かんできて、溺れそうになった。


 黙ったままのわたしがなにを考えているのか、アンにはお見通しだったんだと思う。

 アンはまたお姉さんぶって、義足とホウキを一緒にベンチに立てかけてから、そっとほほえんだ。


「ホウキがナナさんにとって大切な道具であるように、わたくしにも大切な道具があるんです。それがなにかわかりますか?」


「……義足じゃないの?」


「もちろんそうですけど、ひとつだけとは言っていませんよ」


「えぇー、いじわる」


「口をとがらせてないで、早く思い出してください」


 アンに催促されて、わたしは頭をひねった。


(思い出してくださいってことは、わたしはもう答えを知ってるんだ。えーなんだろ、道具道具、アンが使っていた道具……)


 アンのことを思い返してみれば、答えは簡単だった。わたしは自信満々に、パチンと指を鳴らした。


「わかったっ!椅子でしょ」


「ピンポーン、ナナさん大正解~」


 アンはパチパチと手をたたいて、にっこり顔になった。

 わたしはアンがレストランで話していたことを思い出したんだ。アンは椅子のことを特別で、すてきな道具だって言ってた。その意図はわからずじまいだったけど、たしかにアンはいつも、白いハートの椅子に座っている。

 たくさん椅子に座っているし、たくさん椅子のことを知っている。


(それだけアンにとって、椅子は大切なものなんだ)


 わたしにとっては、使っているっていう意識もなくなっちゃうくらい、あたりまえの道具だけど、アンの目にはひとつひとつ、ていねいに映っているんだ。


 アンはたたいていた手をかさねて麦わら帽子の上におくと、真剣な顔つきになってわたしをじっと見つめた。ふしぎに思ってのぞき返すと、アンはその視線を、こんどは紺碧の空に向けた。

 空にはわた雲が浮かんでいて、海と空のすき間をゆったりと東に流れていた。


「わたくしは今でも、ナナさんのことを野良ネコさんだと思っています」


「え、それってわるくち?」


「違いますよ。でもそうですね……、野良ネコさんって自由にのびのびと生きているように見えて、実はとっても息ぐるしい毎日をひたむきに生きているんです。野良ネコさんには居場所がないから、だれかの居場所をさまよって、冒険して、自分の居場所を見つけないと生きていけないんです」


「……なにそれ、なんかっ、笑えないかも」


 わたしはつもりのない笑い方をして、のどもとまで出かかった言葉を首を押さえて止めた。力を入れすぎて苦しくなって、思わずせきこんでしまう。


(わるくちだよっ、ぜったいわるくちじゃん)


 アンは野良ネコの話をしているのに、わたしには、アンがわたしのすべてを知っていて、故郷を飛び出してきたわたしを悲観的に言い表しているとしか考えられなかった。


 アンはきちんと約束をまもって、わたしの事情を聞いてくることはなかったし、わたしも自分の真っ黒な角をアンに見せたことはなかった。

 アンは優しい人だから、きっと言葉以外のところでわたしの心と会話をして、わたしのふさがらない傷に触れてしまったんだ。


 アンと一緒にお茶会をして、お出かけして、ただ笑っていられたらそれでよかったのに。仲を深めるたびに、アンはわたしを感じとってしまう。


(居場所のないわたしを、アンはどう思っているのかな)


 わたしの気持ちとは裏腹に、アンは空の遠いところを見つめたまま、一転して鈴のような声をあげた。まるで軒につるされた風鈴が目に見えない風をわたしに見せているみたいだった。


「ですが、なんとっ、そんな野良ネコさんがかんたんに居場所を見つけられる方法があるんです」


「…………うそだ」


「嘘じゃないです。ほんとうです」


「じゃあ、どうしたら見つけられるの?」


 わたしはふてくされて、深海の底みたいに暗い声で言った。自分でもびっくりするくらい、かわいくない声だった。

 アンは顔色ひとつ変えないで、やっぱり、耳を包みこんで溶かしてしまうような、やわらかい声で答えた。


「椅子に座ればいいんです」

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