第参話 地主の支配

 「まだ起きないわね」



 久城亭の廊下で比奈子が伊吹に話しかけた。


 昨夜、伊吹が師匠から課された夜の見回りで偶然発見した女性は、汚れた着物に裸足で道に倒れていた。狭い通路の向こうで数人の屈強な男たちが叫んでいたが、伊吹の姿を見るとその場から立ち去った。


 事情はわからないが、このままその人を放置できなかった伊吹は久城亭まで彼女を背負って帰り、預かることにした。


 着物を着替えさせる必要があったが、それを伊吹がするわけにはいかないので、比奈子に頼んで面倒を見てもらい、朝を迎えた今もその人は久城亭の一室で眠っている。



 「可哀想に。身体中怪我だらけで、足の裏なんて皮が剥がれて血まみれだった。よほどのことがないと、あの痛みに耐えながら走り続けることなんてできないでしょうね」


 「そ……そうですよね」



 伊吹は比奈子の生々しい表現にその苦痛を想像してしまった。それと同時に、あの小さな身体に絡みついた呪いがどのようなものなのだろうかと案じた。



 「暦法隊士として、できることはしてあげてね」


 「当然です」




 ──それからしばらくして、久城亭は昼食の時間になった。


 宿泊施設の中には食堂があり、宿泊なしで食事だけを求めて客がやって来る。天ノ都随一の宿として知られるこの久城亭には、一流の腕を持った料理人がおり、あらゆる点で高い評価を受ける。


 賑やかな声が廊下の向こうから響く中、例の女が目を覚ました。


 伊吹が彼女のいる和室に入ると、比奈子は簡単に食べられる食事を彼女に与えたところだった。栄養を補給したおかげで顔色は随分明るくなった。


 その女性は久城亭の浴衣を着ており、布団の上に正座して姿勢を正した。


 比奈子は無理をしなくていいと言ったが、礼儀を重んじたようだ。



 「倒れているあなたを見つけて、伊吹くんが連れて来たの」


 「私は斎藤清香と申します。助けていただきありがとうございました」



 伊吹の方に身体を向けて両手を布団について頭を下げた清香は、その姿勢のまま動かなくなった。



 「もういいわ。頭を上げて」



 比奈子が優しく語りかけると、顔を上げた清香の頬に大粒の涙が伝った。その表情は非常に苦しそうで、彼女の苦痛を改めて見せられた気がした。



 「何か事情があるのね。話して」


 「私の両親を助けたいんです!」


 「ご両親?」


 「暦法隊なら助けてもらえると思って、ここまで走って来たんです!」



 話がよく見えない伊吹と比奈子がお互いの顔を見合わせていると、和室の戸が開いて李穏が顔を覗かせた。



 「その話、詳しく聞かせてもらおうか。これも何かの縁だ」



 清香は突然入室した李穏に困惑している。これだけ追い詰められた彼女が疑心暗鬼になる気持ちは理解できる。



 「心配しないで。この人は久城李穏様、暦法隊の天道様よ。それに、あなたを連れて来た風早伊吹くんも暦法隊士よ」


 「お天道様……。あ、あの、私……」


 「そうかしこまることはない。君の身に何があったのか、話してくれるかい? 何か力になれることがあるかもしれない」



 李穏は距離をおいて畳に腰を下ろした。清香を無駄に緊張させないための気配りだ。


 この世界において天道は慕われ尊敬される存在だが、普段顔を合わせることがない人々にとっては神のような存在だと認識されることが多い。この距離で直接話すことなど恐れ多いほどに。


 清香は話づらそうにしているので、伊吹は「大丈夫。俺たちは味方だから」と彼女を勇気付ける。



 「私たち家族は都の外れに住んでいます。その地域は大地主の烏丸様が治めていて、貧しいながらも平穏に暮らしていました。ですが、烏丸様から私にご長男との縁談の話が来て……それで……」



 清香は話すにつれて涙声に変わり、とうとう言葉が嗚咽で出なくなってしまった。比奈子は清香の背中をさすり、少しでも苦しみを和らげようとする。



 「それで、断ったのね」



 比奈子の問いかけに清香は頷いた。


 地域に古くから住む地主は権力を持ち、住人は地主から与えられた仕事で生計を立てることが多い。支配欲が強い地主は独裁者になることもある。


 伊吹は話の流れが見えずに、ただ清香の次の言葉を待つだけだったが、李穏と比奈子はすでにすべてを悟っているらしい。



 「その烏丸という地主の縁談を断ったために、両親が捕えられ、追われることになったということだ。その地域は烏丸に支配されているのだろうな」


 「あ、そういうことですか」



 師匠が間抜けな顔をしている弟子に説明を加えた。



 「まだご両親は捕まったままなのね?」


 「はい……」



 時間の猶予はない。


 清香の前で口に出すことは避けたが、烏丸という地主が非人道的な思考を持つ人間なら、両親は折檻を受け、最悪の事態も考えられる。



 「伊吹、烏丸と話をつけて来なさい」


 「え、ひとりでですか?」


 「天道を目指すなら、なんでも人に頼っていてはいけない。いずれにせよ、お前は暦法隊士だろう?」


 「……わかりました」



 天道を持ち出されると弱音を吐いていてはいけない。


 これも弟子としての務めだ。



 「私も一緒に!」



 立ち上がる伊吹に向けて清香はついて行くと主張したが、彼女の足の状態ではまともに歩くこともできないだろう。



 「ここは伊吹くんに任せて、清香さんは休んで」



 比奈子の説得で清香は伊吹に想いを託した。

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