第弐話 不平等な世界
足の裏を土で汚し、しかしそんなことは気にすることなく、小柄な若い女が大きく呼吸を乱しながら走る。
追手はすぐそこまで来ているはず。
振り返るな、走れ。
今はこの身ひとつで、身に付けた赤い着物だけがこの身体を守っている。それも薄い薄い生地であり、転んでしまえば簡単に破れてしまう。足元がはだけ、土のせいで綺麗な赤はくすんでいる。
お気に入りの着物だったのに、何もかもが台無しだ。
天ノ都と呼ばれるこの街は、『万物天から授かる』という教えによって名付けられたものだと聞く。
夜の都を照らすのは月だけだが、その明かりは決して視界をはっきり映す程強い光でもなく、土の中に混じった小石が足裏に刺さって酷く痛む。
通りの両側には軒が連ねる。この辺りは名家が多いのだろうか、大きな梁が入っている立派な瓦屋根の建物が並んでいる。彼女が育った小さなそれとは大違いだ。
この世に生を受けた瞬間から、人間は平等でないことを知らされる。
お金がたくさんある家庭じゃなくても、幸せな生活だった。それを崩したのは、ある人物だった。それも、恨みを買わないように一生懸命愛想よくしていたら、気に入れられてしまったことがすべての始まりだった。
捕まれば、私は二度と外の世界には出られない。
「いたぞ!」
背中から追手の声が彼女に追い付いたが、まだ距離はありそうだ。
逃げなければ……。
再び走り始めたものの、脚の疲労と足裏の痛みがもう限界に近い。それでも、両親の気持ちを考えるとこんなところで捕まるわけにはいかない。
建物の間に人ひとりがぎりぎり通れそうな狭い路地が目に入った。この隙間なら、もしかしたら追って来ている屈強な男たちは入れないかもしれない。そう考えて女は隙間に入り込んだ。
彼女の身体でも肩を
怖い……、痛い……。
あらゆる負の感情がさらに恐怖を掻き立て、路地を抜け切ったところで足がもつれて転んでしまった。
幸い路地から追手は来なかった。やはり大きな身体では入ることができなかったらしい。
だが、彼女の読みは甘かった。すでに力尽きた身体を起こすことができず、顔を上げると人影があった。
追手のひとりが先回りしたのか。このまま連れ去られるのか。
「いや……」
その影がすぐ目の前まで移動してきたところで、彼女は意識を失った。
私の人生はここで終わる。それならせめて、私ひとりが犠牲になってでも両親が無事であることを祈る。
──ある日、知らせが届いた。
それは、父親の雇い主である人物から届いた縁談だった。
この付近の家々は大地主の
どんな理不尽な要求であれ、それを断ることはこの地域では生きていけないことを意味する。
烏丸は生活に必要な最低限の報酬のみを与えるが、その配下は貧しい暮らしをする家庭ばかりであり、逃げ出そうとしても他の場所で新生活を始めるだけの原資はなかった。
それどころか、逃げ出そうとした者や烏丸の支配をお
それは、烏丸が雇った悪党によって捕まり……その後のことは誰も知らない。
「お父さん、どうしよう……」
その縁談は烏丸家の長男とのものだった。生まれながらに何不自由なく育った彼は、自分が偉いと思い込み、烏丸に雇われて生活している者たちを見下した。
烏丸に嫁げば金に困ることはないだろう。両親に対しても金銭の援助ができるだろうし、貧しい暮らしは離れられる。
家族三人でいる色褪せた畳張りの狭い家にこれ以上住む必要はない。天井から吊られた電球だけが室内を照らし、薄暗い部屋であっても、この場所には清香の成長した思い出が詰まっていた。
俯く清香の肩に手を乗せて、父は言った。
「駄目だ。烏丸に嫁いで清香が幸せになれるはずがない」
「そうよ。絶対に駄目。奴隷として扱われるだけよ」
母も父に同意し、清香の幸せを願う。
「でも、断ったら……」
「大丈夫だ。明日烏丸様と話して来る。何も心配しなくていい」
翌日、父が仕事に出て帰宅することはなかった。
そして、烏丸に雇われた屈強な男たちが叩けば壊れる扉を破って乗り込んで来た。
母は捕まり、清香に「逃げて!」と叫ぶ。
清香が逃げれば両親は酷い仕打ちを受ける。だけど、父と母の想いを考えるとここで捕まってはいけない、そう思った。
だから逃げた。
必ず助けを呼んで来ると心に決めて。
中心地に辿り着けば、暦法隊がいる。
これまで烏丸を恐れて誰もしようとしなかったことを、これから清香がしなくてはならない。
待ってて。必ず戻るから。
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