街角
たなべ
街角
カフェだった。それは外観からしてカフェであった。何故それを直感できたのか、自分でも理解していないが、それと確信させる何かがその店にはあった。艶のある木製の扉。金属製らしいノブが鈍く光っている。蝶番の辺りには涼し気な音のしそうな金属の棒きれが何個も集まった代物(のちに調べたらドアチャイムと言うらしい)が設置してある。目線の高さにはすりガラスが用いられていて、店内がそれほど明るくないということだけが分かる。
私は、自然、身体を扉へ向けていた。扉までには花など活けてあるプロムナードがあった。そこには欧州の都市を連想させる様な、石畳が扉までうねっていた。平たくなった石に、木陰が萌していた。日向と木陰が混合して、ここにしかない模様を地面に描き出していた。そこに初夏の風が緩やかに通り過ぎる。店舗の周囲の木々が揺れる。梢が葉が擦れあって、波打ち際の様な音を出す。
そんな中、私は店前の隘路に佇んだまま逡巡していた。この店に入ろうか否か。扉は如何にも人を吸い寄せる様な感じで立っているし、硝子窓から見える店内の暗さは実に私の好奇心を刺激した。そう思うならば入ればいいだろう。そうも考えた。実際、カフェに入ろうか如何しようか何て迷いは、下らないのだ。入りたければ入ればいいし、そうでなければ通り過ぎればいい。まして、こんな小さなカフェである。収支がやっと黒字になる様な、そんなささやかな店舗である。そんなもののために浪費して良い時間なんて無いのだ。下らない。実にしょうもない。今は大学へ向かう最中であるし、寄り道して間に合う時刻でもない。嗚呼通り過ぎよう。そうしよう。そう決心した時であった。あの扉が開いた。
ドアチャイムがあるのにそれは実に自然にするりと開いた。世界と扉が一体となっているかの様な趣であった。その周辺が扉が開閉するという変化を長年受け止めてきたのが分かった。中からは店員らしき人が、OPENという札を持って出てきた。どうやら今開店の時を迎えたらしい。カフェのくせに10時に開くのかと思ったが、それだけマイペースなのもひとつ良いものだとも思えた。店員は札をドアノブに引っ掛けると、店内へ戻るのではなく、かといって花々に水を遣るわけでもなく、茫然と立ち尽くした様であった。その姿は「どうかしましたか」と私が問いかけそうになるまで見られた。私が近寄ろうとする素振りを見せると、店員さんはちらと私を見た。そして柔らかな会釈。そしてそれから直ぐに店内へ戻ってしまった。私は呆然としていた。
彼女の会釈は、今まで私が見てきた中で一番のものだった。あの瞬間に今日の運命は決まった。店に入ることを決めた。それ以外には考えられなかった。遠くで電車の走る音が聞こえる。恐らく私が乗るはずだったものだろう。私のことになんか目もくれず、家々の隙間を縫うように進んで行く電車のことを想起し、すぐ忘れた。
「いらっしゃいませ」
扉を開けて、そのままいきなり中へ入るのも憚られたので、ノブを持ったまま立っていると静かにそう言われた。柔らかな春の日差しを思わせる様な、詩美な言い方をしていた。昔から硝子玉を口に入れた時の幽かな爽やかさというか、鮮やかな涼しさが好きだったが、それに似ていた。聞いたことの無い種類の歓迎であった。店内は冷房が効いていた。彼女は何も言わずコーヒーカップを拭いていた。彼女はこの職のために生れてきたのだと私に信じさせるほど説得力に充ちていた。彼女の所作はこのカフェと言う空間に何の齟齬も無くぴったりとくっついて、一体となっていた。私は彼女を視界に入れる度に緊張した。
私は窓際の席に座った。庭の花々が風に揺られて、こそこそ動いていた。木漏れ日が薄っすら差して、スポットライトの様になっていた。それは私のために用意されたものだと私は疑わなかった。事実、この街でこの景色を見ることのできる人間は私しかいないのだった。このことが私の気持ちをしたたかにさせた。
テーブルの際にメニュー表が立ててあった。革製のしっかりしたものであった。急に勘定が怖くなった。しかし、中を見てみると何のことも無い、一般のカフェの様に思われた。私は一番上に書いてあった「コーヒー 650円」を注文しようと、彼女を呼んだ。「すみません」という声はまだ誰もいない店内に響いた。私の呼びかけを聞いた彼女はカップを拭くのを止め、丁寧に私の元へ向かってきた。
「ご注文をどうぞ」
語尾が緩やかに抜けていって、少し上がり調子の気持ちの良い言葉であった。
「この、コーヒーを一つ」
指で一と表示しながらゆっくり言った。私の言葉はたちまち空気に溶けていった。そんな気がした。
「かしこまりました」
やはり彼女の言い方は詩美である。一言一言が詩にできる。滅多にこんなこと思うことも無かろうに、この店に来てからというか彼女に出会ってから、何度もこの奇体な感覚が襲ってくる。それはまるで思い出までも撫でられている様で、黄昏の子供時代が自然、想起された。そして、あたかも彼女はその頃からの知り合いであるかの様に思えた。
ふと教科書を読もうと思った。当たり前の様にそんな考えが浮かんだ。あとにも先にもこんなことを思ったのはこの時だけだった。リュックの中から日本文学史の教科書を取り出してテーブルの上に置いた。窓から日差しが教科書にかかり、表紙が黄色く光った。角の丸みが細く影を落とした。
教科書はいつもと変わらなかった。それはいつも通り退屈だったし、眠気を誘った。しかし私は読むのを止めなかった。文字もそれで出来た言葉も何もかも、何故かここにいると安らいで感じた。私の人生がここに向かって進んでいたのだと思わせるほどであった。勿論、私はカフェに来ただけだ。人生はまだ八割方残っている。カフェに人生を規定されてなるものかと反抗する気持ちも半ば、彼女の「お待たせしました」との声と一緒に運ばれてきたコーヒーと共に絆されてしまう。焦げ褐色の液体。湯気の立っているのが見える。私はこの、カフェを背景としたコーヒーの姿にすっかり見惚れてしまって、いつもはこんなことしないのに写真を一枚撮影していた。薄暗い店内に差す陽の光、漂白したかのような白のカップ、そして彼女の後姿。全てが違和感なく合わさって、どこかに応募しようかと思うほどであった。そんなことを考えるのは生れて初めてだった。
コーヒーは美味しかった。味の可否は分からない方ではあるが、それでも私を満足させるには十分だった(こんな言い方をすると私が実に庶民的な舌を持っているが故に、庶民を満足させるような、そんな程度の味でした、と言っている様な感じになってはしまうが、恐らく私の主観を一切取り払ったとしても、このコーヒーは美味しかったし、事実、美味しいという感想がただひたすらに貧乏で卑賤なものであることは誰の目にも明らかであった)。使っている豆を知りたいと思ったのは今まで無かった。聞いてみようとさえ思った。しかしそれを私は憚った。彼女が陶器みたいな風采でいたからだった。まるでからくり人形の様であった。ただこれは生気を感じられないという意味では無く、彼女が気品に溢れているということである。あれほど清らかな身体を見たことが無い(身体というと下卑た薄汚い想像でもしているのかと邪推されてしまいそうではあるが、そういう人は彼女を見るが良い。彼女の姿は人間の「身体」なのだ。多分、犬が見ても蛙が見ても宇宙人が見ても、誰がどう見ようと彼女は人間だと、人間の女性だと断言できるだろう)。私はじっと見るわけにもいかないから、教科書を読みながら何行読んだらちらと見る、何行読んだらちらと見る、ということを繰り返したのだが、私はその度に、何だか価値観が塗り替えられていく気がした。今まで見てきた、出会った人間は人間で無かったのかもしれない、そう感じた。
コーヒーは長い時間をかけて飲み干した。カップの底に溜まった残滓をさえ私は見逃さなかった。いつの間にか三人ほど客が来ていた。どの客も静かだった。そして背景と化していた。それは絵画の様であった。
気付くと彼女が私の元へ向かっているところであった。彼女が歩を進める度に肩にかかるほどの髪が、揺れた。澄んだ黒には力が宿る。そう信じた。
「お水いかがですか」
ふわふわしていた。言葉に触覚が伴ったのは初めてで、驚いた。
「お願いします」
一方で私は低く澱んでいる。彼女の存在を近くに感じるだけで自分がどんどん賤しくなっていく気がした。彼女は高貴だった。
空のグラスに水が注がれていく。幽かな音を立てて溜まっていく水。グラスには光が宿った。丸みを帯びたグラスにきちんと収まった水。それに店内の薄明りが反射して、テーブルに光の陰を落とした。グラスの水が波打つたびにそれは形を変え、生き物の様に動いた。私はその様子を暫く観察していた。いつの間にか彼女は元の位置へ戻っていた。水面が凪ぐと、グラスを揺らして波を作った。作られた波はグラスの縁に反射して、その度に陰は万華鏡の様であった。猛然と詩が作りたくなってきた。
ノートを取り出して、丸まった鉛筆で、
「カフェの十時は
人間の生活から最も遠い
グラスの水は
人間の身体に最も近い
二つが同居するこの瞬間
つまりはこの感触なのだな
カフェの空気を吸いながら
グラスの水を飲む私」
結局、駄文になったけれどもそれで良かった。このノートの一ペエジは明確な意味を持った。勿論、価値は落とした。白のノート用紙に格好の悪い詩が横たわる。無様だ。しかしやはりそれで良かった。それが良かった。
時計を見ると、来店して一時間が経っていたことが分かった。嗚呼、もう出よう。そうしよう。そしてまた来よう。このカフェはいやに芸術心を刺激してくる。
私は立ち上がり、真っ直ぐ扉へ。レジで彼女に千円札を手渡して、350円お釣りをもらって、そしてグラスの水は無料なのだなとしみじみ思う。
扉を開ける。さっきまで木で隠れていた日差しが、堂々と私の目を突く。遠くで電車の音がする。学校にいかなきゃな。爽やかにそう思った。
最後に、誰もいない講義室で思い出した様に書いた詩を。
「五月十七日 晴れ
カフェに行って、魂の殴打を受けた人間が一人
心にうつる君はあの、檸檬のように
必ずまた会いに行きます
這ってでも会いに行きます
今度は手紙を書かせてください」
街角 たなべ @tauma_2004
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