「オレンジを注ぐ」
不味い。
苦くて。苦くて。喉につっかかる。冷えているのに、体は熱くなってくる。
舌がピリリと刺激される感覚。僕はどうも、この感覚が苦手だった。
「どうしたよ。変な顔して」
机を挟んで向かいに座る部長が僕の顔を見て言った。僕は秘密を隠すように目を伏せてビールジョッキを机に置く。
「何でもないですよ」
「そうか。ま、ここのところ徹夜が続いてたしな。今夜は飲み明かそうぜ!」
四十代にしては若く見える艶やかな肌をてからせて、部長は僕の眼前にジョッキを突き出す。
「あ、あはは……」
引き攣ってることがバレないように、僕はジョッキを部長のそれに軽くぶつけた。
──何で徹夜明けなのに飲み明かすことになるんだ……。
そんなこと、入社二年目の僕にはこの場の誰にも言うことができなかった。
ああ……頭がクラクラする。もう酔いが回ってきたのか。まだ一杯目なのに。
「おいおい。まさかもう酔ったなんて言わないよなぁ?」
隣に座る先輩が僕の肩に手を回し、寄りかかって体重を預けてくる。そう言う先輩こそ悪酔いしている気がする。
先輩がギャハハと笑い声を上げるたび、むせ返るようなアルコールの匂いが鼻腔を刺激し、僕は一瞬吐くかと思った。
「今日はお前も参加したプロジェクトが成功したんだからな。いつもみたいにそう簡単に帰れると思うなよ?」
酒臭い……頼むから口を開かないでほしい。
先輩の言うとおり、僕はことあるごとに飲み会を早期撤退してきた。理由はひとつ。
僕はいわゆる下戸なのである。
これでも二十歳になったときは、初めて飲む酒にドキドキした。やっと酒の味を知れるんだ、と思った。
二十歳の誕生日、父に連れられて居酒屋に行き、手始めにとビールを注文して。生ジョッキですと運ばれてきた金色の液体を初めて見たときは年相応の青年と変わらず興奮したのを覚えている。
「じゃ、乾杯」
父は感慨深そうに僕の方へジョッキを寄せ、僕もまたジョッキを手にカチンと乾杯の合図を鳴らした。
父がぐいっと仰ぐように喉を鳴らす。おお……これが男の飲み方か……。僕はその様子に静かに胸を躍らせてジョッキを持つ右手に力を込めた。
持ち上げて、まずは控えめにちょびっと口に含んでみようと口を近づける。泡が上唇に張り付く。液体をくいっと口に流し入れる。
おお、これが。これがビールか。
……不味くないか?
頭に疑問符が浮かんだ瞬間、僕はジョッキを口から離してごっくりとその液体を無理やり喉の奥へ追いやった。
何なんだ今の味は。苦くて舌がピリピリして。これのどこが美味しいって言うんだ。
なんだか頭が重くなってきた。僕を覗き込む父の顔が、ぼやけて見える。
「父さん……僕、ダメかもしれない……」
僕が下戸であると判明した時の父の残念そうな顔ときたらなかった。後から母に聞いた話では、父は僕が生まれた時からずっと、息子と一緒に酒を酌み交わす日を心待ちにしていたのだそうだ。ごめん父さん……。
「ところでお前、なんでビール注文したんだ? 酒弱いんだから、無理して飲むことないだろ」
「……ふく、したいんですよ」
先輩は僕の顔を覗き込み、先ほど絡んできた時よりも声を落として聞いてきた。僕は顔が火照っているのを感じながらぼそぼそとつぶやく。
「克服したいんですよ、ビール」
脳裏には、あの日酔いに酔ってしまった僕を介抱する父の哀愁漂う表情が浮かんだ。
一人息子として、父と一緒に酒を嗜めるようになりたい。あの日飲めなかったビールを、いつか克服したい。
だから僕は苦手なビールをいつも注文し、一口飲んで、そのなんとも言えない苦味に耐え、酔っ払って飲み会を早期撤退するのだ。
ずっとこのままでいいのだろうか。いやいいはずはないのだけれど、飲めないものはどうしたって飲めない。困ったものだ。
「克服って……そんな毎回ビール一口で酔っ払ってるようじゃ一筋縄じゃいかねえだろ……」
先輩の言うことは至極もっともだった。入社してからずっと、僕はビール一口にことごとく負ける。
なんとかしてせめて一杯は飲めるようになりたい。が……。
「おーい後輩、ダウンしてんぞー」
「して……ない、です」
僕が負けられない理由は、もうひとつあった。今日はあの人が来ているのだ。
ちらりと視線を右斜め前、席を挟んでちょうど僕と対称の位置に座る女性に移す。
屈託のない爽やかな笑顔を見せながら、グラスに入ったウーロンハイをごくごくと飲んでいる。
栗色のロングヘアはゆるいウェーブがかかっていて、瞳は人形みたいにまんまるで大きい。それでいて細めた時は何ともいえない妖艶な雰囲気を纏う。
本当に、表情でコロコロ印象が変わる人だ。幼さも大人っぽさも持ち合わせている。
普段、
そんな彼女が。
そんな、僕の初恋の相手が酒席に顔を出しているとなれば、僕がビールごときに負けるわけにはいかないのだ。決して。
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