第13話


 月曜の昼休み、亜紀乃は図書室へ向かった。


 案の定、探している人物はそこにいた。彼はお昼休みになると、いつもそこで一人になって本を読みふけっている。


「篠原くん、教えてほしいことがあるんやけど、ちょっとだけいい?」

 篠原は亜紀乃を見上げた。読んでいたのは何かの英語の原本だ。

「今、本を読んでいる最中なんだけど。後じゃダメ?」

「今がいい」

「丁度、面白いところだったのに」

「ちょっとくらい、いいやろ」

「他を当たれば」

「篠原くんじゃないと、ダメなんや」

「ここではダメなの?」

「少し話が長くなるから、他に行きたい」


 篠原の押し問答を跳ね返すように、亜紀乃は視線を固く譲らない。近くに座る女子生徒が、一連の遣り取りを興味深げにこちらを見ている。篠原は諦めたように肩を落として本を閉じ、二人で階段の踊り場まで向かった。



「東京の文京区にある『かるた記念大塚会館』って、知ってる?」


 亜紀乃の質問に篠原は首を振った。


「さあ、知らない」

「週末な、そこに行きたいんやけど、一人で行くのって自信ないんや。もし知ってたら道程を教えて欲しかったんやけど」


 篠原はスマホを取り出して、大塚会館のアクセスを調べた。


「そんなに難しくないよ。明石さんも、かるたをしに行くの?」

「違うで。慎二の大事な試合があるから、弁当届けに行こうと思って」


 篠原は口をぽかんと開け、目を見張った。


「今、弁当って言った?」

「うん、言った」

「弁当って、食べるやつだよね」

「他に何があるんや」

「まさか、弁当のためだけに、わざわざ東京まで行くの?」と、篠原は「だけ」をより強調して問いかけて、

「ほや」と、亜紀乃は強く頷く。「わたしには、それしかできんから。やれるだけやりたい」


 力強く光る亜紀乃の瞳に圧倒されるように、篠原は声を失った。


「笑う?」

「笑うわけない」

「でも呆れたでしょ」

「まあそれは」

「おかしいと思ったんけ?」

「少しはね。八重園には伝えてあんの」

「それは……当日まで秘密にしておく。どうせ、いらんって言われるだけやし」

「ええ、言わないの?」


「篠原くんの指摘することはわかる。多分、わたし、バカなことしようとしてるんやろうなって思う。でも何もせんでウジウジしてるのは、やっぱりあかんって思った。そんなの戦う前から逃げるってことやろ? それだけは一番嫌や。思い残すことはしたくない。できることは、全部やっておきたい。わたしができるのは、高校卒業までなんや。あと四か月くらいしかない。もう時間がない」


 亜紀乃は息を整えて、すべてを吐き出すように言った。


「『かるた』のないわたしかって、こうやって戦えるんや。それをお弁当で証明してみるつもり」


 わたしって、バカ? 本当、バカやなあと自分で呆れる。試合当日に、福井から東京まで弁当ひとつを運ぶというんだもの。わざわざ、慎二のために。わざわざ、お金をかけてまで。でも、自分にはこれしかない。これしか戦う術がない。


 篠原は何かを探るように、亜紀乃の表情をじっと見つめていた。そして、ぽつりと呟いた。


「ふうん、そういうのは嫌いじゃない」


 さすがに嗤われるだろうと思っていたのだけれども、どうやらそうでもないらしい。亜紀乃は返答に困って言葉に窮した。篠原は腕を組んで何やら考え出した。


「その試合って、いつ?」

「今週の土曜日」

「明石さんって、東京慣れてんの?」


 亜紀乃はぐっと喉を詰まらす。「……中学の修学旅行で、一度だけ行ったことがある」

「それだけ? マジで?」と、篠原はここで口許に嗤いを含んだ。


「当たり前やで。東京なんて、乗り換え不便やし、交通費高くてなかなか行けんもんやで。ほやから、めっちゃ不安やから、篠原くんに道程を訊いたんやが」


「そうか……なるほど」と、篠原はしばし黙考し、「道程を教えるだけじゃあ、心許ないだろ。ああもう、しょうがないな。分からんやつに教えるのも面倒だし、俺が東京までの道案内をしてやるよ」


 今度は亜紀乃が驚く番だ。


「うそ? なんで? そこまで頼んだつもりやなかったんやけど。それにアルバイトがあるやろ? 毎日バイトしとるみたいやし、休めんが」

「仕事は誰かにシフト変わってもらう。職人の数には困ってないから」と、篠原はスマホをいじりながら答えた。「それに、この間の詫びもあるし」

「詫びって……」東京の女の子の名前がふと浮かんで、すぐに打ち消した。「あのことなら、もういいよ。忘れるし」


 篠原はつと目配せをして、「まあ取り敢えず」と、視線をスマホに戻す。「お昼までに渡せばいいだけだし、十一時には現地に着けばいいのかな。間に合うか……うん、ギリってとこだな。六時半……では遅いか。五時半に、芦原温泉駅に集合にしよう。こういう時、新幹線があってよかったな。チケットはネットで先に取っておいてやるよ。俺、よく東京に帰ってるから、こういうのって慣れてるし」


 篠原の手際の良さと、強引すぎるほどの親切心について行けず、亜紀乃は逆に戸惑ってしまった。


「ほんとにいいよ。新幹線代だって高いのに。わざわざそんなん、悪いよ」

「だから、この間の詫びだって言ってるでしょ。あんな顔されたら、誰でも気にするよ。それにお金のことなら大丈夫。仕事でじゃんじゃん儲けさせてもらっているから」

「でも……」と、亜紀乃の疑念は収まらない。「まさか、わたしを揶揄っているだけやないよね?」

「何言ってるの。君、ほんとに疑り深いね。どう解釈したら、これが冗談になるの。案内が嫌ならいいけどさ」


 篠原の表情はいたって真面目だった。単なるおちょくりではなく、どうやら本当に、本気で亜紀乃の手助けをするらしい。


「……ありがとう。じゃあ、遠慮なくお願いさせてもらうわ。篠原くんて、意外に優しいんやね。知らんかった」

「『意外に』は余計。俺はいつでも優しいんだよ、ほんとは。誰も気が付いてないだけで。じゃあ当日遅れるなよ」


 篠原はさっさと階段を上って図書室に戻る。


 どうしよう。大変なことになっちゃった。篠原くんの行動って、本当に唐突で意味不明で理解不能。まるで嵐の吹き荒れた後のよう。口の閉じ方を忘れてしまった。一連の成り行きに信じられない思いで、足がマネキンのようになってその場から動くことができなかった。

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