第12話

 亜紀乃はいつものように学校へ通った。友達としゃべり、勉強をする、そんな当たり前の毎日。


 でも篠原にだけは、視線を向けることはできなかった。無意識に視界から外した。篠原も、何事もなかったかのようにこちらを無視していた。でも下手に気遣われるよりは、よっぽどいい。亜紀乃にとってはその方がありがたかった。


 慎二にも顔を向けることができない。亜紀乃の気持ちなんてお構いなしに、慎二はいつものように気楽に過ごしていた。何も知らない呑気な彼が、なんだか逆に憎たらしくもあった。


 篠原のことを責めているわけではない。あの言葉に怒ってしまったら、あれが亜紀乃の本当の気持ちだったんだと認めてしまうことになる。それだけはどうしても避けたかった。


 暗い海に渦を巻くような、感情のうねり。底知れぬ崖の淵に立たされるような感覚。あんな気持ちに立ち向かうことなんて、亜紀乃にはとても耐えられそうにもなかった。


 だからもう何も気にしないことにした。何も考えないようにしようと決心した。その方がずいぶんと楽だった。


 でもどうしても、ふっと記憶が飛び出てくるときがあった。そういうときは唇をぎゅっと閉じて歯を食いしばり、空き缶を潰すように記憶をぐちゃりと圧縮して、意識の深い所へ投げ捨てるように閉じ込めた。永遠に目の前に現れないでと強く念じながら。


 意識の底には、紙屑のように捨てられた記憶の塊がたくさん積みあがっていた。幼いころ、慎二と一緒にかるたをしたこと。相合傘だって囃されたこと。何気ない慎二との日常会話。慎二のために弁当を作ったこと、慎二のくせ毛、こめかみにある慎二の傷跡、話すときに鼻を擦る慎二の癖、焦ると早くなる慎二の瞬き、妙に長い慎二の指、綺麗に手入れされている慎二の爪……そんなゴミ山に気付かないふりをずっと続けた。


 こんな思いもいつか慣れてくるだろう、いつかは忘れることができるだろう、そう信じながら、普段通りに毎日を過ごした。



 二週間の土曜日、その日は午前中で模試が終わった。光葉と理子が、久しぶりにお昼を食べに行こうって誘ってくれて、近くのマクドナルド店にいくことになった。


 いつものように賑やかにおしゃべりしていたら、突然光葉が顔を伏せ、大きく息を吐き出した。


「のおのお、聞いてや。もうショックで、ショックで、どうしたらいいやろ」

 亜紀乃と理子は驚いて顔を覗き込んだ。

「なんや、どうしたの」

「この間久しぶりに体重計乗ったら、この三か月で、体重が二キロも増えてた」


 再び肩で大きく息をする光葉に、

「みっちゃん、全然そんなに太ったように見えんよ、ていうか、元から痩せすぎやったで」と、亜紀乃はやんわりと慰めた。

「でもこのあたりに肉が付いたなって、気にはしてたんよ。どうしよう……」


 光葉は顔を上げ、頬の肉をつまんだ。ぷにぷにとマシュマロのように柔らかそうだ。光葉は話を続けた。


「ここだけの話やで。実はわたし、篠原のことを、ちょっと気になってたんや。あいつに会えたらいいなって思って ”Jardin d’iris” に毎週末通ってたんよ。でも篠原ってな、厨房にいるんかして、結局会えたことなんて一回もないけど。でもな、あそこに通ううちに、ケーキに嵌っちゃって、やめられんくなってしもて……」


 光葉の電撃告白に、亜紀乃と理子が目を丸くした。

「みっちゃん、篠原のことが好きやったんか?」


「だってカッコいいやんか」光葉は耳に髪の毛を掛けて、ウーロン茶を飲んだ。「好きっているか、気になるってだけやで。カフェに行くのも、篠原と何かのきっかけがあったらいいなあって、ただそれだけ。でも今では、篠原目当てなんか、ケーキ目当てなんか、よう分からんくなってきた。ああどうしよう。いつの間にかケーキを全種類制覇してもた。あそこのケーキは悪魔のケーキやで。食べても食べても欲が止まらん。マジでヤバイ」


 そう言って、光葉は頭を抱えた。ウェーブのかかった長い髪が、はらりと落ちた。

「ほうかあ、大変やったんやな。可哀そうやから、このチョコパイは、わたしが食べたげるわ」


 理子がチョコパイを取ろうとするのを、光葉は必死に手で抑えた。


「あかん、それとこれとは話が別やで」

 そう言って大きな口でパイに噛りつく。

「これからは歩いてカフェに行くことにする。そうすればカロリーが差し引きゼロになって、きっと痩せれるはずやし」


 支離滅裂な解決法に、亜紀乃は思わず大笑いした。

 その表情に、二人は視線をちらりと合わせた。


「亜紀乃、ちょっとは元気になったか?」

「え、なんのこと?」と、亜紀乃は不思議そうに瞬きする。


「亜紀乃のことくらい、うちらにはよう分かるんやで」と、理子がにっこりと笑った。「亜紀乃が、なんか悩んでることあるんやないかって、みっちゃんと話してた。亜紀乃はすぐになんでも自分の中に溜め込んじゃうから。我慢するのもいいけど、少しは吐き出すと楽になるんやで。うちらがどう思うとか、気にせんといてな。なんでも相談して、頼ってな。友達なんやから」


「ほうや、亜紀乃。嫌なら無理して言わんでもいいけど。でも言いたくなった時にはすぐに言ってな。なんでも聞くよ」と、光葉も相槌を打つ。


 二人の笑顔を見て、亜紀乃はようやく気が付いた。


 慎二だ。慎二のことだ。慎二の推薦入試のことは、すでにクラス中に広まっていた。

 きっと、二人も知ってたんだ。でもあえて言わなかったんだ。

 わたしのために。わたしに随分と気を遣ってくれて。

 光葉と理子、二人の優しさが嬉しかった。優しさが、目の奥を刺激した。

 じんわりとしたものが溢れてくるようで、亜紀乃は思わず目を閉じた。


「うん、ありがと……もう大丈夫。ほんとにありがと」


 光葉が、肩を撫でてくる。亜紀乃は顔を覆った。


 二人の友情が、心を貫いていた氷の刃を、そっと引き抜いてくれた。氷漬けになっていた心臓が、やっと温もりを取り戻したようだった。温かな血液が、待ちかねたように勢いよく全身を巡り始めた。


 ――いつまでグジグジと悩んでいるの。このままじゃ、終われない。考えろ、考えろ。今のわたしに出来るものは。


 亜紀乃は刃を抜いた奥にあるものを、必死に探しだす。温かな血で洗い出し、掻きだして、ほじくり返して、ようやく広がった仄暗い穴から、微かな希望を取り出した。


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