第11話


 竹田川は狭い道路を挟んで店裏の目と鼻の先にある。裏口の狭い砂利には篠原のものらしき黒い自転車が置いてある。篠原からスマホを渡してもらった場所はこの先だ。冬を迎える竹田川は雑草だらけのわびしい姿を晒していた。タンポポのギザギザの葉っぱだけがこれから訪れる厳しい冬の寒さに耐えようと、必死に地面にしがみついていた。


 石畳で整備された堤防がなだらかに続く。北風が思いのほか強くて、亜紀乃は着ていた薄手のコートの前襟を手で閉じた。足元の震えが寒さのせいなのか、それとも緊張からなのか、亜紀乃には分からなかった。


 支流が流れ込む河口付近は、水鳥の休息所となっていて、愛らしい鳥たちの戯れが川面を賑わせていた。丸いもの、大きなもの、細かなもの、変則的なもの、様々な形の波紋が水に描かれていた。不規則に変わりゆく水の模様をぼんやり眺めていると、程なくして、グレーのトレンチコートをパティシエ服の上から羽織った篠原がやってきた。


「篠原くん、わざわざごめんな」

 謝る亜紀乃をちらりと見て、篠原は答えた。「別に、この時間はまだ店が暇だったからいいよ」


 さっきは忙しいって怒ったくせに、と思ったが、亜紀乃は口にはしなかった。

 さてどこから言えばいいのかなと、会話の切り出しに迷った。一羽の水鳥が沈黙を冷やかすかのように、二人の前を泳いでいった。


「……お店、めっちゃお洒落やよね。ケーキも美味しいし。こんなお店持つなんて、篠原くんのお父さん、すごいんやね」

「親父のパティシエの腕前と店作りのセンスだけは自慢できると思う。性格は最悪だけど」


 思いもかけない篠原の毒舌に、亜紀乃は思わず吹き出した。


「あんなに美味しいケーキを作る人やのに?」

「自分とお菓子のことばかりを考えてて、周りが全然見えてない。それで母親にも愛想つかれたし」


 もしかするとそれが「家の事情」――篠原の苗字にも関係するんだろうか、と亜紀乃は思ったけど、それ以上は聞かなかった。


「八重園のこと、聞きたいんでしょ、明石さん」


 篠原の問いに亜紀乃はゆっくり頷く。篠原は亜紀乃の顔を見て顎に手を置き、何かを考え込む様子を見せた。


「俺ってなんでも正直に話してしまうクセがあって」と、篠原は口にした。「正直、というか、素直に話してしまうというか。人の感情を必要以上に読み取ってしまうみたいで、いろんなことが分かるし、逆に分からない。だから、自分にとっては普通に感じ取られることでも、他人にとっては辛いこともある。なんでそんなこと言うんだって怒られたこともある。でもどうして怒られるのか、自分には理解できない。だって分かってることを言ってるだけだから。多分会話の波のようなものが、他人とは少しずれてるんだと思う。それで酷いこともいろいろ経験して、諦めて、今は人と必要以上に付き合わないようにしてる。もしかすると明石さんにとっては厳しい話になるかもしれないけど、それでも構わない?」


 亜紀乃は篠原の顔を見つめた。改めてみると、二重の瞼が思った以上にくっきりとしていて、整った顔立ちに憂いを帯びてて、みんなが騒ぐのもわかるなって思った。

「いいよ、気にせんし」と、亜紀乃は答えた。


 気持ちよさげに泳ぐ水鳥たちに視線をやりながら、手を顎から腰にやって、篠原は話を続けた。


「こっちに編入したとき、すぐに八重園が話しかけてきたんだ。自分から転校生に話しかけるなんて、大人しいあいつにしては珍しいと思う。『上野の、どこに住んでたんや』って聞いてきた。奇遇だけど、八重園の知り合いで、上野に住んでいるやつがいるんだってね。住所を答えると、さらに八重園が食らいついてきた。かるたをしてるアキブ・モミジっていう女の子、知らないかって。どこかで会ったかもしれないけど、残念ながら俺には分からなかった。学校も違ってたし、かるたもしないしね。そう答えたら、あいつ、ひどく落ち込んでさ」


 そう言って篠原は一旦話を止めた。


「秋生、もみじ……」


 亜紀乃は思わず呟く。東京の、かるたの友達。友達? 本当に、その子ってお友達なの……寒さと緊張で心臓が凍り付きそうだった。逃げ出したくなって、指先が細かく震え出した。

 篠原はさらに続けた。


「アキブって女の子にひどく執着してた。お姉さんが同じパティシエをしているから、知ってるかもしれないって。どうにかして思い出せんかって。あまりにもしつこいから、お前となんか関係あるのって聞きかえした。そうしたら八重園は『ただのかるた友達や』ってだけ答えて、黙り込んだ。顔を耳まで真っ赤にしてね。あいつ、マジで分かりやすい。そういう分かりやすいところ、俺は好きで結構気に入ってんだけど」と、篠原は目を閉じてかすかに口元をゆるめた。


「あいつ、東京に好きな子いるよ」


 残酷で、冷静。篠原の宣告は氷の刃のようだった。刃の冷たさが、亜紀乃の心臓も、頭も、手も足も、髪の毛の先まで、すべて氷漬けにしてしまったようだった。膝が崩れてしまいそうだったけど、篠原に気付かれないように必死にこらえた。


「好きな子のこと、本気だと思う。八重園のことが好きだったらまずいよって、つまりはそういうこと。あいつの性格って知ってるでしょ。思ったら最後、一直線というか。前しか見えてないっていうか。相手から完全に振られない限り、周りから何を言っても多分聞いてもらえないよ」


 分かってる、そんなこと。もうずいぶん昔から。


 かるたが大好きで、慎二を負かすほどに強くて、遠くにいるくせして、どうして慎二の近くにいるんだろうって思うだけで、なんだか無性に腹が立った。そしてそう思う自分にウンザリした。もうあの子のことを忘れてしまおう、そう思おうとしたのに、どうやってもその名前を忘れることができなかった。


 あの子の名前を何度も慎二の口から聞いた。もみじ、もみじ、秋生もみじ。かるたクイーンを目指す女の子。かるたのことで、LINEやメールをたくさん遣り取りしているのも知ってる。慎二にとって、大切な「かるた」の友達。あの子は「かるた」を、ちゃんと持ってる。亜紀乃にはない「かるた」を……


 ほんとは、知ってたんだ。なにもかも。でも知らないって、思い込んでた。

 知らないふりをしてた。誰にも言わなかった。

 だってこれは全部、亜紀乃だけの秘密だったから――


 亜紀は不自然に押し黙る。視界がぼやけて、きっと目は真っ赤になってる。亜紀乃の様子に気が付いたのか、

「……ごめん、やっぱり俺言い過ぎたね」と、珍しく篠原が神妙に謝ってきた。「俺ってさ、いつもそうなんだ。他人の限度がいまいちよく分からなくて。ほんとに、ごめん」


 亜紀乃は返事を返せなかった。どうしよう、どうしよう。口を開けると、一気に涙があふれ出そうだ。


 篠原はこれ以上何も言わなかった。黙っている亜紀乃に少しだけ頭を下げて、篠原は職場へ戻っていった。裏口の扉が閉まる。彼がいなくなると、亜紀乃はうずくまって静かに泣いた。声をなるだけ出さないように、奥歯を噛みしめて、口を押さえて、涙が枯れるまで、ずっと泣いた。


 水鳥たちが彼女を慰めるように、優しく鳴き声を上げていた。

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