第10話


 いつの間にか、足は ”Jardin d'iris” に向かっていた。


 十一月初旬の風が冷たい。店の前のドアで立ち止まって、やっぱり引き返そうと思って、結局中に入った。開店してすぐだから、お店にはまだ誰もいなかった。亜紀乃はおずおずと窓際の席に座って、メニューを開いた。


「いらしゃいませ」と注文を聞きに来た女性の人に、小さな声で亜紀乃は尋ねた。

「あの、篠原くんって、お店にいますか?」


 亜紀乃の質問に女性の人は少し首を傾げ、それからああ、と微笑むように頷いた。


「亮くんのことやね。あなたも亮くんのファンなの。多いのよね、そういうお客さん。いいわよ、いるから呼んでこようか?」

「すみません、お願いします」と亜紀乃は頭を下げる。


 自分は一体ここで何をしているのだろうと、恥ずかしくなって顔が真っ赤になってきた。別に、篠原のファンやないし。水を一口飲んで、心を落ち着かせた。


 しばらくすると、白いパティシエ服を着た篠原がやってきた。帽子で茶髪を隠しているからか、見慣れぬパティシエ姿からか、仕事中の篠原は別人のように大人びている。


「明石さん、何か用? 仕事中で今は忙しいんだけど」

 篠原のいら立ちが亜紀乃にも伝わってきた。ちょっと怖い。申し訳ない。

「いきなりごめんね。やっぱり仕事してたんや。すごいね」


 気後れしながら話しかける亜紀乃にいら立ったのか、篠原は眉をひそめてぶっきらぼうに答えた。


「すごいも何も、ただの仕事じゃん。すごいって言葉が、俺にとってはすごく失礼なんだけど。仕事だけがすごいの。部活をしているやつはすごくないの。勉強をしているやつはどうなんだ。用事ないなら、もう戻っていい?」


 わあ、相変わらずの冷や対応。なんだか客であるこちらが悪いように感じられてきて、

「あ、違う違う、変なこと言ってもて、ごめん」と、なぜか謝る。「篠原くんにちょっと聞きたいことがあったんや」

「訊くのなら学校で頼むよ」

「いや、ちょっと学校ではマズくっての。友だちに訊かれるのもアレやし……のお、前、わたしにスマホ届けてくれたことあったやろ。あん時、篠原くん、なんか変なこと言ったの覚えてえん?」


「変なこと?」篠原は腕を組んでしばらく考え込んだ。「さあ、さっぱり覚えてない」

「なんで忘れるの。頭いいのに」

「つまらんことはその場で忘れる主義」


 これはかなりの偏屈だ。慎二以上にてこずるぞ。誤魔化せば誤魔化すほどにはぐらかされそう。ならば直球で勝負しよう。気持ちを落ち着かせるために、亜紀乃はコホンと咳払いをして居ずまいを正した。


 さあ、いくぞ。


「慎二のことで言ってたが。『やめた方がいい』とか、『不幸になる』とか……」

「言った?」

「言ったが。ホントに覚えてえんの」


「まあ、そんなことを言ったかもしれない。なんとなくだけども、薄っすらと思い出した」と、篠原は気まずそうに頬を掻く。やはり、篠原は何かを知っている。


「あれってどういう意味やったんや? なんで慎二のことをそんな風に悪く言うんやろうって、訳が分からんくて、ずっと気になってたんや。学校でも声掛けられんし。こんなところで悪いとは思うけど、よかったら……あの……ちょっとでもいいから、わたしに教えてくれんか……」


 言っていて、段々と不安に陥る。弱気になり、亜紀乃の声は消え入りそうなくらい小さくなった。最後の方なんて、俯いてしまって、声になったかどうかも分からない。ちゃんと聴きとってもらえただろうかと、ものすごく不安になった。


 篠原は下を向き唇を噛んでいる亜紀乃の様子をじっと見ていたが、小さくため息をつくと口を重そうに開いた。


「少しだけ仕事抜けていいか、親父に頼んでくる。裏の川のところに堤防があるから、そこで待ってて」

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