第8話

 夏の終わりは、イコール受験シーズンが本格化してきたことでもある。

 夏休み前に比べて、生徒たちの緊張感がより高まっているのを亜紀乃は肌で感じた。廊下の掲示板は大学の広告と、受験対策の張り紙で埋め尽くされていた。それをじっと眺める生徒の数も日に日に増えてきた。


 放課後は希望者による補講が毎日のように行われていて、ほとんどの生徒が夕方遅くまで授業と自主学習に明け暮れていた。


 その中で一人、ある時間になると慎二は補講を抜け出し、副担任と一緒にどこかへ行く。面接の準備じゃないか、どこかの推薦入試を受けるんじゃないかって、みんながこそこそと騒めき合っていた。


「のお、亜紀乃、八重園くんってどこ受けるの。福井大学か?」

 休み時間に光葉が聞いてきた。

「前はそう聞いてたけど。大学のことを尋ねたのなんて一年の時やったし、今は全然知らん」


 そう、誰も知らない。慎二はいつも寡黙だから。噂だけが、水に広がる波紋のように広がってく。


 いつも一緒にいる篠原なら知っているかもと、亜紀乃はふと思いつく。でも彼は人を寄せ付けないようなオーラがあるから話しかけることができなかった。


 篠原は補講を受けることもなく、授業が終わるとさっさと家に帰っていて、陰で彼を慕う女子たちが残念がってた。塾? それとも、アルバイトをしているとか? 毎日アルバイトってね。いやまさか。でも補講なんかしなくたって、テストでは上位の成績を取っているのが、彼のすごいところだった。天才って、ああいう子のことをいうのかもしれない。ちょっとうらやましい。



 晩夏になって、夕暮れが早くなった。家に着くころには、黄昏時の路が薄暗い。亜紀乃の家は十年前にリフォームをして、新築のように壁が綺麗だ。四十年も前に建てられたとかいう慎二の家は古臭く重厚で、二軒を並べてみるとちぐはぐなパッチワークのような違いがある。お互いの玄関先にある終わりかけの白い日日草の鉢植えだけがお揃いだ。


ステンレスの門扉を開けようとしたら、ちょうど慎二が自宅の前を通りかかるところだった。チャンス、とばかりに、亜紀乃は慎二に駆け寄った。


「のお慎二、今日は副担任の先生とどこ行ってたんや?」

 亜紀乃の声に気が付いて、慎二は後ろを振り向いた。

「なんや急に。どこって、技術室行ってただけや」

「なんでそんなとこ行くの」

「そんなん推薦入試の面接の練習に決まってるやろう」


 当然のごとく話す慎二の答えに、亜紀乃は一瞬声を詰まらせた。


「推薦って……あんた前に福井大学受けるって言ってたが。あそこって推薦があったっけ?」

「福大?」新は眉を掻いて首を傾げた。「あるかもしれんけど、福大の入試のことはよう知らん。受ける大学違うし」

「えっ、違うの」

「うん」

「どこの大学なん?」


 慎二の口から京都の某有名私立大学の名前が出てきた。国内でもトップクラスの私立大学だ。亜紀乃は唖然として慎二を見つめる。


「なんで私立? しかも東京? うちらのクラスって、国立進学コースやろ」

「国立とか私立とか、受けるくらい関係ないやろ。推薦落ちたらどっかの国公立目指すつもりやったし。やりたいことあるんやったら、福井でも関東でもどこでもいいんやないか」


 そつなく話す慎二の返事は確かに正論。亜紀乃はそれでもなにかを言い返そうと、脳をぐるぐると回転させた。僅かな沈黙が二人の間を漂う。


「……そんな大事なこと、なんでわたしに言わんかったの」

「え、言わなあかんのか?」


 きょとんとした顔で慎二は答えた。「ほやかって――」と言いかけて、確かにそうだなと亜紀乃は思いなおした。

「……東京行ったら、お金かかるで」


「それは知っとる」と、慎二は視線を上にあげた。「だから奨学金申請したで。県のやつで、Uターン就職したら返済金が半額になるやつあるんや。それが月に六万ほど貰える。あとはバイトもするつもりやし、学生寮入ったりとかで、親になるだけ迷惑かからんようにはするつもりや。お祖父ちゃんが積み立ててくれた学資保険もあるみたいやし、まあ多分、なんとかなるで」


 慎二は亜紀乃に顔を向けた。夕方のわずかな光が、慎二の全身を茜色に包んでいた。


「面接は、練習だけでもいい勉強になったで。大学でなにができるんか、将来に向けてどうしていきたいのか、社会に対して何ができるか。こういったことを、面接の準備でずいぶんと考えてきた。これは俺にとって、今後のことを考えるいいきっかけやった。やっぱり俺は、かるたしかない。かるたと人の世界とを、何かの力で結び付けていきたい。それが一番やりたいことやって、面接の練習でようわかったんや。かるたを続けてきたことも、お祖父ちゃんとかるたしてきたことも、決して無駄ではないと思う。俺はそれが生かせる大学に行きたい。そんな俺を必要としてくれる仕事をしたい。それが俺の道なんやったら、悔いないように全力でやり切りたいと思っとる」


 慎二は真っ直ぐに亜紀乃を見つめて言った。亜紀乃は反論できなかった。


 慎二はすでにずっと先のことを考えていた。目の前の亜紀乃を見ているようで、その視線の先には違うものがあった。亜紀乃の知らない間に、そして亜紀乃の見ていない間に、自分の知っている慎二が徐々に変化していくのを、亜紀乃は感じた。


 亜紀乃は口を何度か開けたが、言葉が地面にぽろぽろこぼれ落ちてしまったみたいに声を見失ってしまった。


「亜紀乃はどこ受けるんや? 医学部か?」

 慎二の声で、ようやく亜紀乃はバラバラに落ちていた言葉を地面から拾い上げた。

「……ほや、第一志望は、福大の医学部……親の背中見とるし、看護師目指したいし」

「やっぱりほうか。昔からの亜紀乃の夢やもんの。大学行ったら離れ離れになるかもしれんな。お互い頑張ろな」


 そう言って慎二は亜紀乃に笑いかけた。かすれたような亜紀乃の声に気付いてさえいない、残酷なほど無邪気な男の子の笑顔。亜紀乃は何も言い返せなかった。


 今日はかるたの練習があるから、そう言って慎二はさっさと家へと入っていった。


 亜紀乃は立ち尽くして動けなかった。体も、心も、地面に鷲掴みにされて、ひしゃげてしまいそうだった。でもどうしてそんな気持ちになるのか、自分のことなのに、亜紀乃には全く理解できないのだった。

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