第二章:一年前
兄が出かけたあと、朝食を済ませたルミアは、書斎の机で一人、一年前のことを思い出していた。
その取引は些細なことがきっかけで始まった。
ルミアの故郷はソッシ・ルーデ村という、地平線の方まで続く広大な森と山々に囲まれ、大きな都市からはもちろんのこと、他の集落などからも、一本の細い街道があることを除けば完全に孤立した小さな村だった。立地は不便としか言いようがなかったが、自然豊かで、夏も涼しく、温厚なエルフたちがゆったりとした自給自足の生活を営む、住みよい場所だった。
しかし、一年前、あるエルフが村に立ち寄ったことで、ソッシ・ルーデ村の生活は大きく変わった。彼の名は、イヴェルヌス・カイロスバード卿。エルフの王都に住む名門貴族の筆頭で、千年近くの長きにわたり、エルフ王の右腕としてエルフ全体の発展に人生を捧げてきた実力者である。そんな彼とその一行が、人間たちが住む南の七王国の視察の帰路の途中、偶然ソッシ・ルーデ村を通りかかったときのことだった。
「この近辺の木々がこのような可能性を秘めていたとは...やはり、エルフ三千年の生涯、発見に満ち溢れている...」
少し体と心を休めたいと言ったイヴェルヌス卿一行を、村のエルフたちは森へと案内した。そこで、ソッシ・ルーデ村近辺の森の木々は他とは比べ物にならないほど理想的な木材となり得ることが判明したのだ。イヴェルヌス卿はすぐに村長を呼び、村周辺の森の木々を伐採し、木材としてカイロスバード家に売ってくれないか、と交渉を持ちかけた。突然の提案に戸惑ったエルフたちだったが、協議の末、村を発展させ、よりよい場所にできるならばぜひ、とこの提案を快諾した。
こうして、ソッシ・ルーデ村の大規模森林伐採事業が開始された。ローダスは毎日朝から森へ木を切りに行き、ルミアの両親は連日カイロスバード家からの使者や商人との交渉と商談で忙しかった。村のエルフたち全員が、各々ができることに全力で取り組み、心からこの事業が実を結ぶことを願っていた、たった一人を除いて。
「なんなんだろう、この、嫌な予感...」
彼女の村が伐採事業に乗り出すことが決まったときから、ルミアはなんとなく嫌な予感を感じていた。ルミア自身にもなぜ自分がそのようなものを感じているのか、理由はわからなかったが、とにかく何かがおかしいと感じていたのだ。
そして、その朝の悪夢は、彼女の中でその朧気な感覚をとてもはっきりとしたものにしてしまったのだった。
ルミアは窓の外に目をやった。通りは穏やかな陽の光に照らされ、家々の屋根の上では小鳥がさえずり、森の方からはエルフたちが笑い合いながら切りたての木を担いできていた。冬の寒さに負けない温かさが、そこには有った。
ルミアは大きなため息をついた。なぜ、なぜこんなにも温かな場所で、自分はこんなものに悩まされているのか。彼女の頭はそのことで一杯だった。
暗い考えを払うように頭を横にふると、ルミアは机の上にあった分厚い本を開いた。
「えっと、今日は... 第五回復魔法のつづきだよね...」
その日ルミアは、日が落ちてローダスが森から帰ってくるまで、ずっと机に向かっていた。その時の彼女にできたことといえば、魔法の勉強をして、気を紛らわすことぐらいだったのだ。
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