第1話 ガチだよ

本編



“地番91にあるアパートを、孫の鈴木すずき想太そうたに相続するものとする”



 ある日、こんな文章が俺の手元に届いた。


 鈴木すずき想太そうたは俺の名前。文章の差出人は、去年亡くなった俺のじいちゃんだ。


 じいちゃん――。


 口は悪かったけど、とても優しいじいちゃんだった。

 去年のお葬式を思い出すといまだに涙腺が緩んでしまう。


 実家から離れた場所にあるそのアパートは、昔じいちゃんが住んでいた家と隣り合わせになっている。


 四月も中旬に差し掛かった今日。

 俺は、そのアパートに行くために近くの駅を降りたところだった。


「ここらへんは変わったなぁ」


 俺が大学に進学してから三年。じいちゃんが具合が悪くなってから三年。

 かなり久しぶりにこの町に来ることになった。

 都市部に近いところにあるので元から賑やかな印象があるが、それでも随分若い人が増えた気がする。なんでも近くに新しい大学ができたらしい。


「ぎゃははは!」


 少し離れた場所で、一台の赤いオープンカーが走っているのが見えた。外に聞こえるほどの大音量で音楽を鳴らしながら、仲間同士でふざけ合っている。


「危ないなぁ……」


 運転がふらふらしている。


 嫌だなぁ、昔はこういう人たちはいなかった気がするんだけど……。

 そんなことを考えていると――。


「ええっ!?」


 信号が赤信号に変わった。

 だがその車はスピードは落とす気配がない。


 ――目の前の交差点を、制服を着た女の子が渡ろうとしていた。


「危ないッ!」


 俺は咄嗟に大声を出してしまった。


「……?」


 その女の子が、俺の声にびっくりして固まってしまった。

 俺は無我夢中で走り出して、その女の子を突き飛ばした!



キィィイイイ



 甲高いブレーキ音とともに、体中に鈍い衝撃が走った。


「あ……ぐぅ……」


 体が跳ねて、左腕に何か固いものがぶつかった。

 轢か……れた? 痛みはないが体中が熱を持っている。


「だ、大丈夫ですか!?」


 女の子が急いだ様子で俺に駆け寄ってきた。


「えっ……? そ、そんなまさか……」


 女の子の顔が急速に青ざめていく。


 あ、あれ……? この子、どこかで見たことあるような――。


 そう思ったのも束の間、俺は鋭い痛みとともに意識を失ってしまった。







「私、大きくなったらお兄ちゃんと結婚する!」


「あはは、気持ちだけは受け取っておくよ」


「な、なんでぇ! するって言ってよ」


「だって由芽ゆめちゃんとは五歳も歳が離れているんだよ? 現実的に考えて無理じゃないかなぁ」


「げんじつてきにって何?」


「多分、無理って話!」


「うぐっ、ひぐっ、そんなことないもん」


「わわっ! 泣かないでよ!」


「お兄ちゃんが由芽ゆめと結婚するって言ったら泣き止む」


「じゃ、じゃあ由芽ゆめちゃんが大きくなってもこのことを覚えていてくれたらちゃんと考えるから」


「大きくなったらって何歳まで?」


「うーん? 結婚できる年齢になるまで?」


「ぐすっ、分かった。約束だからね――」







「……に……ちゃん」


 随分、昔の夢を見た。

 忘れていたなぁ。そういえばじいちゃんちに遊びに来ていた頃、随分俺に懐いてくれた女の子がいた。


 今頃、何してるんだろう。

 顔立ちが整ったとても可愛い子だったから、あんな約束なんか忘れて、今頃彼氏でも作っているだろうな。


「お……にいちゃん……」


 それにしても、わざわざじいちゃんちの近くで事故ってしまうなんて。

 じいちゃんが知ったらなんて言われることやら。


「お兄ちゃん!」


 ……ん? 誰かの声がして目が覚めた。


「お兄ちゃん! 想太そうたお兄ちゃん!」


 目を開けると同時に、低めのゆるいポニーテールしている女の子に抱きつかれた。


「痛っ!」

「ご、ごめん! 左腕にヒビが入っているのに……」

「え?」


 どうやら俺はベッドの上にいるようだ。

 左腕には小指を中心にぐるぐるとギプスが巻かれている。


「良かったぁ、目を覚まして……」


 目の前にいる女の子が真っ赤に目を腫らしている。


 イマイチ状況が飲み込めない。

 ココハドコ? コノコハダレ? 


「こ、混乱してるよね……お兄ちゃんは私の代わりに車にはねられたんだよ……」

「そう……なんだ……」


 あっ、この子はさっき助けた女の子か。

 じゃあここは近くの病院かな……。


「君に怪我はない? 大丈夫?」

「私はすり傷程度だったから! そんなことよりもお兄ちゃんの手が……」


 その女の子が申し訳なさそうに俺の左手を見ている。

 制服を着ているから年齢は高校生くらいだろうか。


 はぁ、親にはなんて説明しよう。今日はアパートに行く予定だったのに。


「ごめんね……本当にごめんね……」


 女の子が声が震えている。

 くりくりの大きな目からは大粒の涙がこぼれ落ちてしまっていた。


(ん?)


 この光景、どこか見たことがあるような。


「君が謝ることじゃないよ。ケガは直せばいいだけだから気にしないで」

「で、でもぉ……まさか助けてくれたのがお兄ちゃんだなんて……」

「お兄ちゃん?」

「私、汐見しおみ由芽ゆめだよ。お兄ちゃん、私のこと覚えてくれてる?」


 俺に妹はいない。こんな呼び方するのは――。


「も、もももしかして近所にいた由芽ゆめちゃん!?」

「はいっ! 由芽ゆめです!」

「どぇええええ!? 大きくなったから全然分からなかった!」


 肩まで長い真っ黒な髪、マシュマロみたいな白い肌、長いまつ毛の下にはくりっとした大きな瞳、そしてちょっと癖のある毛先――。


 ある! 子供の頃の面影が確かにある!


 すっかり女性らしくなっているが、近所に住んでいたあの由芽ゆめちゃんだ!


「本当はもっと大きくなってからと会えたらと思ってたのに……」

「大きくなってから? なんで?」

「お兄ちゃん、昔、私が言ったこと覚えてない……?」

「……」


 夢の話が由芽ゆめちゃんしている。

 いや、由芽ゆめちゃんが夢の話をしている!


 あれ? 俺、まだ寝ぼけてる?


「もしかして結婚するって話?」

「そうっ! 私、十八になったら結婚するつもりでいたの!」

「へ?」


 からかっているとか、冗談を言っているとか、そんな雰囲気は一切ない。

 むしろ声色は真剣そのものだ。


「それってガチで言ってる?」

「ガチだよ?」

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