朱殷の遺恨

六番

朱殷の遺恨

「もし急に私が死んでしまったとしたら……どうする?」

「ひもすがら泣きしきって、その涙に溺れて私も死んでしまうだろうね」

 嘘をつけ、この尻軽女が。

 彼女の歯の浮くような回答に私は心中で唾を吐いた。

 服屋での買い物帰りに寄ったラブホテル。煙草臭い安部屋で二人きりのファッションショーを楽しんだ後、私たちは全てを脱ぎ去ってベッドの中で寄り添いあっていた。きめ細かで潤った彼女の肌は果実を思わせ、ゴワゴワしたシーツの上ではより際立って感触が伝わってくる。まだシャワーを浴びていないのに、その身体からは石鹸のような穏やかで清々しい香りがした。

「こうやって抱き合ったまま、死んでしまいたい」

 私の低い呟きを聞いて、彼女はフッと溜息まじりに笑う。そして、言葉の代わりにキスで私を嗜める。唇を啄み、舌先も使いながら頬から顎先にかけて丁寧に撫でる。そして、首にその肉感的な唇を押し当て、音を立てながら吸い上げ始めた。

「もっと強く吸って」

 私は懇願するように囁き、彼女の頭を抱き寄せる。吸われ続けている部分の皮膚の内側に、じわじわと熱が集まってくるのを感じる。しばらくして、彼女は湿っぽい息を緩やかに漏らしながら唇を離した。

「また痕になっちゃった」

 上目遣いで私に微笑むその顔は、悪戯を告白する子供のようで憎らしいほどに愛らしい。


 付き合い始めて今日でちょうど一年。彼女を愛する気持ちは今もなお膨れ続けている。

 思えば、初めて会ったときには私はもう好きになっていたのだと思う。友人として何度も顔を合わせる内に恋心の輪郭は濃くなり、気持ちを無視することは難しくなっていった。しかし、私が恋人になれるだなんて微塵も思っていなかった。

 文句のつけようのない整った容姿に人懐こい性格。聡明で自身に満ちていて誰からも慕われる才女。彼女が人から好意を寄せられる能力に長けているのはよく分かっていた。興味を抱いてもらえるような要素などまるで無い私に、周囲の魅力的な人たちを出し抜くような胆力は無かった。

 傍からただ眺めているだけで充分だったのに。想いは胸に秘めていたつもりだったのに。

「私のこと好きなの、バレバレだよ」

 そんな一言で私の心は容易く射抜かれた。今日と同じホテルに連れていかれ、私は泣きじゃくりながら全てを曝け出して愛を示した。

 そして、身も心も彼女に差し出したその日以来、甚だしい渇欲が私を襲うようになった。彼女の愛によって満たされたいという抗えない希求だ。

 しかし、彼女が私を真っ当に愛することなどついぞなかった。彼女は好き放題にできる飢えた女を何人も手懐けていて、私はその都合の良い女の一人に過ぎなかったのだ。彼女が真に愛しているのは、そんな私たちを意のままに支配している彼女自身なのだろう。

 死にたいと思った。しかし、それは絶望や悲嘆による苦悶の衝動ではない。私はもはや、彼女を愛していると同時に怨んでいる。このままいつか関係が途絶えてあえなく忘却されるくらいなら、私の死によって彼女の心に消えない傷を残してやりたいのだ。

 そのためには自殺では無意味だ。私が勝手に命を絶ったところで、彼女はひとしきり嘆じた後に別の女を抱いてその疚しさを振り払うまでだろう。時が経つにつれて自然治癒で消えるような傷では、命という代価にとても釣り合わない。

 心を深く抉るならば、彼女による行為で直接死ぬのが良いに違いない。彼女自身にトリガーを引かせ、着弾を直視させるのだ。

 そして、私は彼女にキスマークを乞うようになった。痕が残るくらいに強く皮膚を吸引すると、その下の血管に血栓ができることがあるらしく、それが原因で脳卒中や心筋梗塞によって死亡した人がいるという記事を見たことがあったのだ。

 彼女が支配の証として私に遺した痕が死を誘引するとは、なんて理想的な方法だろうか。確率はとても低いだろうが、試してみる価値はあると思った。問題は猶予の余裕が無いことだ。できる限り早く成し遂げねばならない。彼女が私を捨てる前に。私の憎しみが愛情を上回る前に。


「ねぇ、もっとして」

 私は顔を上向けて首筋を伸ばした。ここは皮膚も薄く、血管も集中している。死に至る傷を付けてもらうのに最も適している場所だ。

「今日はやたらとねだるね」

「付き合って一周年の日なんだし、いいじゃない」

 私の言葉に、彼女は一瞬だけ動きを止めて戸惑いの表情を見せた。

「……そうだね」

 しかし、すぐに得意の甘い笑顔で頷き、私の頭を撫でる。

 誤魔化せたと思っているのだろうか。忘れていた、と正直に言えない彼女のプライドの高さも私は愛しく思ってしまう。同時に、他の女との記念日はちゃんと覚えているのだろうかという疑心が沸き起こる。

「ほら、もっと。……忘れられない日にしてね」

 私は彼女を見つめながら、自身の首を愛撫するように両手でさする。先ほどのキスの場所には、ほのかな熱と彼女の唾液がまだ残っていた。


 了

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