N 光の貴公子②

 アデル帝国とディディエ王国、そしてクルシード公国の三国は、逆三角形を描く隣国同士だ。決して仲が良いとは言えないながらも、絶妙な均衡の上にかろうじて平和を保っている。これら三国を陸で結ぶドロモス荒野には、途切れることなく人が訪れる。国同士の仲が悪くとも、国民は関係ないとばかり。越境しようとする者は絶えることがなかった。


 茶色い煉瓦を積んで造られた空車乗り場の上に立ち、ノアは吹き付ける風に目を細めていた。この辺りは遮るものが何もないため、風が強い。駅舎にはめ込まれた色時計はカーマインと夕刻近いが、太陽はじりじりと照りつけ弱まる気配を見せていなかった。


「次の便まで間があるな」


 団長が時刻表を眺めながら言う。広大なドロモス荒野を渡る際は、高速空車に乗るのが一般的だ。二本のケーブルに吊り下げられた空を進む列車は、徒歩で五日はかかる行程を一日もかけず走り抜けてしまう。


「よし、空車が出るまで各自、自由!自由行動だ。では、かいさーん!」


 団長は愉快げに声を張り上げた。またいつものバーに行って、女性店員の尻でも眺めてデレデレしながら酔っぱらうのだろう。


「自由行動かー。なんか、わくわくすんな。何するかなー」


「ボクはダーツでもしたいなー」


 マギーがきょろきょろと周囲を見渡している横で、ルカが間延びした声を出した。


 ノアは何も言わずにその場を離れた。せっかくの自由時間にまで、顔を突き合わせていることもないだろう。


 ドロモス荒野の空車乗り場の周辺には、小さな街が形成されている。国境を越える者たち目当てに集まった多種多様な商売人たちは今なお増え続けていて、街は無計画に拡大していく一方だ。そのため街路は複雑に入り組んでいるが、ノアの頭の中にはおおまかな地図が出来上がっていた。


 夏が去って秋が始まっても、昼間の暑気は厳しかった。冷たい飲み物でも欲しいところだ。


 団長やルカが訪れない店は心得ている。ノアは土が剥き出しの寂しい通りに出て、一角にある店舗の暖簾をくぐった。


 扉に取り付けられた鐘がからんと鳴った。いらっしゃいませ、の一言もない。カウンターの中にいる店主が顔を上げた。ここは彼が一人でやっている店で、よく経営が成り立つものだと思うほど客がいない。超高級品であるテレビなども当然なく、いつも静かだ。ノアにとっては落ち着ける環境だった。しかし今日は先客が一人いるようだ。


「ソーダ水」


 店主の前を通る際にオーダーを告げて、窓際の四人掛けの席につく。東に面した窓からは太陽光は射してこないが、照明のおかげで暗すぎることもない。


 程なくして、店主が小さな気泡入りの透明な液体をコップに満たして持ってきた。それをノアの前に置いて、何を言うこともなく去っていく。


 この店のソーダ水には砂糖の類は入っていない。甘くもなんともないのだが、ほのかにライムが香る。ストローも何も刺さっていない、見映えもしない味気ない品だが、これがなかなかどうして、ノアは気に入っている。


 三口ほど飲んで体が涼を得た頃、テーブルに薄い影が差した。怪訝に思って見やると、テーブルを挟んで向こう側に女が立っている。店内にいた先客だった。


 謎めいた雰囲気を放つ、陰気そうな女だった。髪色は脱色してから染めたのだろう薄い紫で、その上にヴェールを被っている。暑くなってきたというのに手袋をしており、長いドレスのような衣装は古典的な魔導士のローブのようにも見えた。


「御宣託、聞いて行かれませんか?」


 蚊の鳴くような小さな声だったが、しんとした店内であるからかよく耳に届いた。


「胡散臭いな、宗教の勧誘か?」


「私は無神論者です」


「どちらにせよ、結構だ」


 ノアは手で追い払う仕草をした。しかし女は動かない。表情すら、動かさない。


「易者か?」


 ため息交じりにノアは尋ねる。女は初めて表情を動かした。


「……ええ。そのようなものです」


「なんだ、不満そうだな。易者という表現が気に障るか?」


「私は、〈導く者〉」


 女は勧めてもいないのに、目の前の席に座った。ノアは女に対して薄気味悪いものを感じ始めていた。この出で立ち、喋り方、話す内容、すべて気味が悪い。


「失礼させてもら――」


 ノアが席を立とうとしたところで、女がどこからかカードを三枚取り出した。何も描かれていない真っ白なカードだ。それをテーブルの上に等間隔に並べていく。


 何故かノアは目が離せなかった。去るべきだと思うのに、体が動かない。


 女が目を閉じた。左掌をカードの上にかざして、左へ回転させる。大して速い動きでもないのに、風が起こったような気がした。カードが淡く輝き出す。手の回転速度が増し、やがてふわりと浮き上がった。


 ノアは目を瞠る。この女、やはり怪しい術士か。


 カードが目線の位置まで浮き上がると、易者は左手をテーブルの上に下ろした。カードは回転したままだ。こちらに襲い掛かってこないかと少し不安になる。女は目を開き、宙を回るカードに息を吹きかけた。二枚のカードが卓上に落ちる。残る一枚は浮かんだまま静止していた。いつのまにか、黄色に色づいている。


 手品か、幻術か。何にしろ、化かされたのは間違いがない。


 女は宙に浮いたカードを手に取った。女の手にしたカードは、元の重力の縛りの中に返ったようだった。


「貴方は、自分の置かれた状況に満足していませんね?」


 女は深く息を吐きだしたあと、カードを見つめたままそう尋ねてきた。相変わらず小さな声だが、耳にはよく届く。彼女の言ったことはその通りだったが、素直にその通りとは言えず、ノアは顔をしかめて黙っていた。


「でも、貴方は充分過ぎるものを手にしていると思います」


 顔が強張るのが分かった。それはどういう意味かと問い質したくなる。ノアは出かかった台詞を呑み込んだ。ただの、変な女の戯言だ。


「身の丈以上のものは手に入りませんよ」


 女は無表情のままに、ぽつぽつと喋る。その視線が手にしたカードからノアに移った。髪と同じ色の、不思議な色をした瞳だった。一瞬、その淡い色を儚げで美しいと思った。


「自分を不幸と思って、他者を不幸も知らぬ馬鹿だと思うのはおやめなさい」


 ノアは自分で顔が熱くなっていくのが分かった。上から目線で知ったような口を利くな!声を荒らげそうになるが、堪えた。もう一度自分に言い聞かせる。ただの、変な女の、戯言たわごとだ。


 ノアは飲み物代をテーブルの上に置いた。女の瞳の色に一瞬でも見とれた自分が、馬鹿馬鹿しく思える。


「失礼する」


「お待ちください」


 一言だけ告げて店を去ろうとしたが、呼び止められた。振り返る必要もないはずなのに、なぜか足を止めて振り返ってしまった。


「これを、お持ちください」


 女が差し出したものを、ろくに見もせずに奪い取る。何故、受け取ってしまったのか自分でも分からない。足早に店を出た。そのあとで手の中のものを確認する。


 鮮やかな黄色のカードだった。

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