D 鉄の戦女神②

 朝、階下からの母の呼びかけに起こされた。大して寝た気もしなかった。


 いつものようにしばしの間、ベッドの上でだらだら過ごす。この時間がなければダリアの体は動かない。武器磨きは夜のうちに済ませてしまったので、時間には幾分か余裕があった。


 なんとか起き上がってベッドから降りる。ダリアはこの作業がこの世の他の何より大嫌いだ。色時計はエメラルドグリーンを示している。任務のある日は青みの強いうちに起きねばならないから本当につらい。


 名残惜しさを振り切って服を着替え、のそのそと一階に降りた。もう全員が起きていることだろう。毎日朝食を抜くダリアは、朝が一番遅い。


「ダリア、おはよう」


「おはよう」


「顔、ちゃんと洗いなさいよ」


 ダイニングには母しかいなかった。いちいちうるさいことを言ってくる母に逆らうのも面倒なので、のろのろと洗面所に向かう。


 洗面所の窓からは墓が見えた。団員たちの墓だ。傭兵などをやっていれば、当然命を落とす者も出る。墓標の数は決して少なくない。


 グレンが一つの墓標の前にしゃがみこんでいた。


「ああ、そうか。今日は……」


 呟いて、ダリアはしばしの間、動きを止める。




 ダリアには妹がいた。名前はメリッサという。皆が親しみを込めてメルと呼んだ。


 メルはダリアと違って愛嬌のある性格だった。それゆえ、皆から愛された。そしてダリアと同じく傭兵だった。親が傭兵団の長であれば、それが自然な流れだろう。立って歩けるようになる前から霊印を宿され、人殺しのすべを教え込まれた。


 一年ほど前のある日、メルは任務に出たきり帰ってこなかった。メルの身に付けていた衣類や靴、装飾品だけが同業者によって運び込まれた。珍しいことではない。


 メルはグレンの愛した恋人だった。




 ダリアが近づくと、グレンは足音を聞きつけたのか、しゃがんだまま首だけで振り返った。長い鉄黒てつぐろの髪が風に吹かれて周囲の草木と同調するように揺れている。哀愁を帯びた顔は、情緒など欠片も感じさせない男に似合っていない。こいつはもうどれくらいこうしてここにいたのだろう。尋ねることはしないが少し気になった。


「プレゼント?」


 墓標に水色の宝石がはめ込まれた首飾りが掛けられている。


「ああ。アクアマリンってやつだ。知ってたか?」


 グレンはしゃがんだ姿勢から立ち上がった。


「知らない。宝石に興味はないから」


「ま、お前はそうだろうなぁ」


 なんだかむっとさせられる言い方だったが、ダリアは感情を表に出すことはなかった。


「メルが気に入りそう」


「そうだろ?高かったんだぜ」


 ダリアはグレンの隣に並んだ。墓標に刻まれたメリッサという文字を見つめる。これを目にするたび、妹は死んだのだと実感させられる。


 メルがいなくなって、ダリアは体のどこかが欠けたような気分になった。仲間を失うのはつらいものだ。傭兵という職業柄、覚悟しているとは言っても衝撃は少なからずある。


 それが、妹だった。小さな頃から一緒に過ごしてきた妹だった。喪失感と無力感は想像以上だった。あの頃の思いは筆舌に尽くし難いものがある。


 あれから一年ほどがたち、妹のいない現実を受け入れ始めた自分がいるように思う。残酷なものだ。当時は慣れることなどないと、乗り越えることなどできないと思ったものだが、人間は適応するようにできているのかもしれない。


「ダリア、お前、気をつけろよ」


 グレンが口を開いたので、ダリアは左隣を見る。


「お前は敵の懐に飛び込むようなもんなんだから」


 今日から始まる任務のことを言っているのだなと思い当たる。


「いつも率先して敵の懐に飛び込むグレンに言われても」


「茶化すなよ。オレは真面目に言ってんだ」


「そう。分かってるよ」


 一段と強い風が墓地を吹き抜けた。ダリアは目を細める。


「帝国が敵だと決めつけるのもどうかと思うけど」


「とにかく、気を付けろってことだよ!」


 急に照れ臭くなったのか、グレンは語気を荒くした。「そう」とダリアは素っ気なく応じて、間を取ったあと言葉を続ける。


「グレンも気を付けた方がいい。昨日、父さんも言ってたけど、何が起こるか分からないから」


「おう」


 それからしばらく、二人で並んでメルの墓の前にいた。




 ダリアの出発はグレンたちより早かった。いつものように母が見送りに出てきた。どんなに忙しくても、母は団員の見送りを欠かさない。


「ダリア、充分に気を付けてね。ローランドさん、ダリアをお願いします」


 娘に一声を掛けて優しくハグをし、同行者であるローランドに頭を下げた母は、心なしかいつもより不安げにしていた。


鉄の腕ブラッチョ ディ フェッロ〉の拠点があるフィーネ山から帝都インテグリータに辿り着くには、アルコ河を越える必要がある。アルコ河は帝都の第一の門とも称される弓なりの長大な河川だ。北から南へと流れる水流は、霊峰ブランから内海であるレジーナ湖へと注がれる。


 ダリアとローランドは馬上の人となり、草原に吹き渡る風を体に受けながら進んだ。石畳の街道上には、妖魔除けの六芒星が等間隔で描かれている。急ぎの旅ではないので、帝都までは片道に一日をかける予定だ。夕方頃には到着するだろう。


 天気は晴れ。ぽつぽつと白い雲が浮かぶ空は澄んだ青色をしている。北の空に常に浮かぶ第二の月〈永久星エクス〉は夜に輝く第一の月と似た黄色をしていた。


 やがて、地平線にきらきらとした輝きが覗いた。日光を水面に反射させるアルコ河だ。少し進めば、河の上に架かる石造りの橋が見えてくる。


 ダリアは拠点を発ってから初めて、旅の連れに声を掛けた。


「ローランド。今回の任務、どう思う?」


 口数の少ないローランドと二人きりのときは、雑談をすることはほとんどなかった。ローランドは必要なこと以外、口にしようとしない。特別ダリアと気が合わないというわけではなく、他の団員といるときもそうだった。ただダリアの父とだけは、たまに晩酌などしながら意見を交わしているようである。


 ローランドはまるで話しかけられてなどいないかのように、馬の手綱を握ったまま無表情にしばらく黙っていた。


はかりごと


 ぼそりと一言だけを返し、再び口を閉じてしまう。声を掛けられたことに腹を立てているかのような反応だが、これがいつものローランドだ。


 やはりローランドもそう考えているのか。ダリアはしばらく間をとってから、次の問いを発する。


「なんで、わざわざエルフの団員を帝都に呼んだと思う?」


 ダリアは顔色を窺うようにローランドを見た。この質問をエルフ本人に投げかけたかったのだ。


 ローランドの濃い紫の髪が風に吹かれて揺れている。染めているわけではなく、地毛である。こうした変わった髪色はエルフ族の特徴だった。他に彼らと人間との外見の違いを上げるとしたら、先の尖った耳の形くらいだろうか。


 今度の沈黙は前回よりも長かった。返事は期待できないだろうかとダリアが思い始めた頃になって、ローランドはやっと口を開いた。


「分からん」


 随分待たされたにしては実のない返答だ。期待を裏切られたダリアは前方へ視線を戻す。橋が近づいてきている。


 これ以上、質問を重ねることは躊躇ためらわれた。しつこいと思われてしまいそうだ。


「充分に、気を付けねばならないだろう」


 ダリアは再び右隣に視線をやる。空耳かと疑ったが、ローランド本人の声だったように思う。ローランドが二言目を返すなんてかなり珍しいことだ。ほとんどないと言ってもいい。


 帝都に着いたら何が起こるのか。改めて這い上ってきた緊張感に、ダリアは手綱を握る手に力を込めた。




 アデル帝国帝都インテグリータは巨大な城塞都市だ。八角形の黒く高い壁に周囲をぐるりと囲まれている。門は東西北に一つずつ、計三つあり、その上には斧と不死鳥フェニックスがあしらわれた帝国の旗が掲げられている。


 元々アデル帝国の紋は斧と冥府の番犬ケルベロスだった。それを現皇帝アイーダが自らの権勢を誇示するかのように、即位後すぐフェニックスに変えてしまったのだ。建国以来、受け継がれてきた紋の刷新に反対の声も多く挙がったが、アイーダはそれを力で抑え込んだ。


 我がままで気紛れ、自らは奔放であるくせに、施政は厳格で抑圧的。即位してから三年、女帝アイーダにはまったくと言っていいほど良い話を聞かない。


 砂地の上に敷かれた石畳の上を、ダリアはローランドと並んで騎乗したまま進んでいく。帝都東門にはいつもより多くの兵が詰めているように見受けられた。これが凶兆でなければいいが。


 帝都の外壁から長く伸びる影が一帯を覆っていて、西に傾く太陽は見えない。日が暮れる前に帝都に宿を取りたいのだろう者たちが、急ぎ足で門をくぐっていく。そうした人々に紛れながらも、ダリアは鼓動が速まるのを感じていた。


 門前まで辿り着くと、武器を持った兵たちがさりげない動きで周囲を囲んできた。彼らの金と赤の派手な軍装もアイーダが改変したものだ。壁の上の歩廊には、弓兵が数人控えている。物々しい雰囲気に門を行き交う一般人ですら気付いたようで、不安そうに辺りを見回している。


「ダリア、気を付けろ」


 ローランドが珍しく自分から口を開いた。その目は門の奥をじっと睨むように据えられている。馬が不安そうにいなないた。


 その者を目にした瞬間、ダリアはうなじの毛が逆立つ感覚に襲われた。


 門の奥から悠然として歩んでくる一人の男。人の波の中でその男だけが、ガゼルの群れの中にいるヒョウのように浮いていた。背丈も体格も普通の男だ。骸骨じみた不気味な仮面をつけているが、何もそれだけがこの男を異質たらしめているのではない。


 他者の畏怖の視線すら快感とするように堂々と歩んできた男は、ダリアとローランドの進路を塞ぐようにして立ち止まった。腰に帯びた剣はすらりと長い。仮面の下から覗く唇が笑みを形作った。


「〈鉄の腕ブラッチョ ディ フェッロ〉の者たちだね?」


 落ち着いた発声は普通の男のものだった。ダリアたちが返答するより早く、仮面の男は言葉を継いだ。


「身柄を拘束させてもらうよ」


 至って爽やかに、何でもないことのように言われたため、相手の言葉の意味を理解するのに時間がかかった。


「どういうことだ?」


 ローランドが問う。冷静ではあったが、声音には戸惑いが滲んでいるのが分かる。


「君たちに問う権限はない。馬から降りてくれるかな?」


 周囲を囲んだ金赤の兵たちが一斉に武器を構える。壁の上からは矢じりがこちらを狙っている。ダリアはローランドを見た。ローランドは前方を、仮面の男を見据えたまま、しばらく黙った末、口を開いた。


「従おう」


 ローランドが馬を降りる。


「さあ、レディ。貴女も」


 仮面の男に促され、ダリアも戸惑いながら馬を降りる。


「さて、手枷を付けさせてもらうよ。素直に応じてくれるのなら、霊印を封じることはしない。君たちも一兵士なんだ。印を汚されるは誇りを奪われるも同じことだろう?」


 周囲を囲んだ兵のうち、二名が駆けてきてダリアとローランドの手の自由を奪った。ローランドは観念したかのように目をつむっている。


「よかった。抵抗するようだったら、君たちを傷付けねばならないところだったから。どうやら足枷は必要ないようだね。あれを付けると歩きにくいだろう?君たちは賢明だよ、本当に」


 仮面を付けた男の表情は当然、窺えない。本当によかったと思っているのか、声色からだけでは判断できなかった。


 兵に腕を取られて歩かされる。屈辱的な形で、ダリアとローランドは帝都インテグリータの門をくぐることになった。


 遠くの方で誰かが「捕り物だ!」と騒いでいるのが聞こえた。

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