お見合いと一緒ですからね 1.4


   ◇


 静かな空間の中で、一枚の絵画をただ眺めていた。

「企業Vチューバーのオーディションに応募した」という写真が柊木から送られてきた後。


 俺は何を思ったのか、東京にある美術館に来ていた。


 それをわざわざ俺に送ってくるということは、太知にはもう俺にイラストを描いて貰うつもりはないということだろう。

 つまり、俺がいまさらイラストを描けるようになったって無駄だ。だから美術館なんていう、何も面白くない場所に来る必要だってない。

 

 ——それでも俺は、足の赴くままにこの場所に来ていた。

 もしかしたら「色」が見えるようになるかもしれないと期待して。

 ただ、結果は単純だった。

 イラストじゃなくて絵画なら、「色」が見えるかもしれないと思ったけど、実際は何も変わらない。

 むしろイラスト以上に訳の分からない、見てて何も感じない「線画」が見えるだけだ。

「…………帰るか」

 そう呟き、出口へと足を進める。


 そうして歩く中で、自分が何をしたいのか分からなくなった。

 決して安くない交通費を払い、美術館の入場チケットまで買って、二時間も見たのに何も変わらない。何も得られなかった。

 むしろ悩みが増えただけじゃないか。色が見えないことだけだったものが、自分がこれからどうしようかというものまで追加された。

「柄にもないことするもんじゃねーなー……」

 本当にその通りだ。時間と金をかけて気分転換しようとした結果が、悩みが一つ増えただけという成果なのだから。

「これからどうするんだよ」

 自分に言い聞かせるように呟いて、少し考えてみる。

 

 ——が、考えれば考えるほど、どうにでもなる。

 というか、思い返してみれば俺の生活は何も変わってない。


 色が見えなくなったことも、別に今に始まったことではない。それに俺は元々、美術館で絵画を見て「面白い」と思うような人間でもなかった。

 特にやりたいことも、やらなきゃいけないこともなく、学校にだけはとりあえず通って、あとは自分の好きなようにだらだらとした生活を送る。

 そんな俺の生活が、変わることはない。

「………………」

 いや、違う。変わらないんじゃない、変えたいんだ。

 ふとした時に記憶に流れる、太知が俺の描いた絵を「好きだ」と言ってくれた時のこと。

 あの時の太知の笑顔がもう一度見たくて、期待に応えたくて、俺はもう一度イラストを描くことを決めたんじゃないか。

 昨日、太知と言い合いになったのだって、イラストを描きたくなくなったわけじゃない。描きたいと思ってて、太知からも期待されてるのに、いつになっても描けない自分に嫌気が差したんだ。変わりたいのに変われないまま。

 そんな自分に嫌気が差したんだろ。

 

 それでもまだ、イラスとを書きたいと思ってんなら。

 太知の為に、Vチューバーのモデルを描きたいと思ってんなら——。


 色が見えないことも、自分にとって嫌な思い出のある絵も関係ない。

 太知が好きだと言ってくれた絵を描いた日のように、がむしゃらに、ただひたすら自分の思う「最高」を形にすればいいだけだ。

 そもそも俺は、自分で太知に言ったんじゃないか。

 一年以上描いてないから、描けるようになったとしてもクオリティは落ちるって。

 初心者とたいして変わらないかも知れないって。

 だったら初心者と同じように、目の前にある描きたいイラストに集中するべきだろう。

 言い訳なんか必要ない。

「————よし」

 自分の感情に区切りをつけて。

 家に帰ったらまず、途中で投げ出したイラストに向き合おうと決めた。

 いままで空っぽになっていた俺のやる気は、そう決めた途端ふつふつと湧き上がる。

「そうと決まれば、早く帰らないとな」

 この胸に湧き上がる、やる気の炎が消えてしまう前に。今の自分にとって最高のイラストを描こう。


 そう思って、駅に向かう足をさらに速くしようとした時だった。


「——え。アンタもしかして、「そーやー」じゃないの?」


 美術館を出て、俺はいつの間にそんな歩いていたのか、駅の近くの交差点にまで来ていた。

 駅がすぐ近くにあることも気付かないくらい、俺は自分の思考に夢中になりながら歩いていたのだろう。

 交差点を行きかう人たちの足音も、車が鳴らすクラクションの音も、信号の音でさえ俺の耳には留まらない。


 なのに、その声はそんな俺をたった一言で引き留めた。


 脳裏にこびりついて消えない嫌な記憶。その記憶を思い出すたびに聞こえてくる「気色悪い」という言葉。

 その言葉と全く同じ声が今、俺の後ろから聞こえてきて足を止める。そして、辞めとけばいいのに俺は振り返った。


 そうして、ゆっくりと振り返った先にある、俺に声を掛けた人物の姿を見て。

「あー、やっぱりそうだったぁ! なんでこんなところにいんのぉ?」

 

 ——再び聞こえたその声に、俺は全身が粟立つのを感じながら立ちすくんだ。


   ◇


「なんで……って、それはこっちのセリフだろ」

 人通りが決して少なくはない東京の交差点。そんな場所で俺に声を掛けてきた人物に、平静を装ってそう返した。

 だが、そんな態度とは裏腹に頭は混乱している。なぜ、よりにもよってコイツがここにいるのか、と。

「はぁ? 別に私は引きこもりとかじゃないし。どっかの誰かさんと違ってねぇ?」

「そう、だな。……なら俺に話しかけてくんなよ」

 俺にとってのトラウマであり、出来ることならもう二度と会いたくなかった人間が今、目の前で不敵な笑みを浮かべている。


 ゆるくウェーブのかかった黒髪。細身でありながら、出るところはしっかりと出ている体型。そして、黒い髪に似合う透き通った肌。

 一目見ただけでは、目の前にいる女子が清楚であることなど疑いようがない出で立ち。

 ただ、そんなものは目の前にいる存在が作りあげた嘘に過ぎない。そのことを、俺は他でもないコイツから身をもって思い知らされた。

 白と黒のモノトーンを基調とした、真面目で大人しそうな雰囲気の服装も。後ろで手を組んで、少し上目遣いになりながら俺の様子を観察するその仕草も。

 傍から見れば、スタイルのいい美少女が、俺を少し揶揄って遊んでいるようにしか見えないだろう。だがそれら全て、コイツは「演じている」んだ。

 自分の魅力という武器を、最大限生かす方法をこの女は知っている。

「あれぇ? もしかしてそーやーさぁ、私にビビってんの?」

「…………別に」

 嘲笑の交じった声でそう言われ、俺はいまさらながら足を止めたことを激しく後悔した。

「へぇ? ビビってないんだ? じゃあなんで目を合わせようとしないのかなぁ?」

「あんたのその、気持ち悪い顔を見たくねぇからだよ」

 相も変わらず、俺を嘲笑って端正な顔を歪めているその女に、精一杯の強がりを言った。だけど、その程度の言葉でコイツが傷つくわけもなく。むしろ余計に調子に乗らせるだけだった。

「あっはははは! なにその理由! ウケるんですけど。——つーか、隠しても無駄だから。アンタさ、私にまた「気色悪い」って言われるのが怖いんでしょ」

「————っ」

 平静を装っていたのに、たったその一言で俺の体は竦んでしまう。

「忘れてると思った? それとも、気付いてないとでも思った? ざーんねん、ちゃんと覚えてますー。アンタのせいで、私はアイドルを辞めることになったんだもん。忘れられるわけがないよねぇ!」

「………………」

「で、そんな私のアイドル人生を台無しにしてくれたアンタが、なんでこんな所に遊びに来て人生楽しんでるわけ?」

 

 楽しんでる? ふざけんなよ。


 お前のせいで、俺は色も見えなくなってイラストを描けなくなったってのに。他のアイドルより多少、愛想を振りまくのが上手かった程度のお前に、なんで俺の描いた絵の文句を言われないといけないんだよ。

 なんであの時、俺はお前なんかの為にイラストを描かなきゃいけなかったんだよ。

 そんな不満が、愚痴となって止めどなく溢れ続ける。

 お前さえいなければ、お前と出会ってさえいなければ。

 考えてもしょうがないと頭で理解はしていても、そう思わずにはいられない。


 だけど、俺はその愚痴を口には出さなかった。

 いや、出せなかった。

 二度と会いたくなかった人間に出会い、好き放題言われた時点で。俺の心はとっくに崩壊していて、言い返す気力すらわかなかった。

「………………」

「——チッ。陰キャが外に出てくんじゃねぇよ。気色悪い絵を描くことしか取り柄がない陰キャ風情が」

 何も言い返せず、ただ黙って立ち竦んでいただけ。

 そんな俺の様子を見て何を言っても無駄だと判断したのか、そいつは本性を現して捨て台詞を吐いた後、人混みの中へと消えていく。

 そうしてやっと一人になれたというのに、俺はその場に立ち竦んだままだった。


 ——歩道のど真ん中に突っ立ったまま俯く俺を、通行人たちは迷惑そうに避けて歩いていく。


 異物を見るような視線を向けられ、たまに舌打ちすら聞こえてくるその中で。

 俺はついさっき言われた「気色悪い」という言葉を、頭で繰り返していた。

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