人の数だけあるトラウマ 1.1


 

 ——その日、それ以降のことはよく覚えていない。


 ただ一つ記憶に残ってるのは、翌朝になったら「ごめん」という一言が書かれた紙きれが、出しっぱなしのちゃぶ台の上に置かれていたということだけ。

「…………」

 そんな紙切れを床へ仰向けになって寝転がって、天井にかざして眺めていた。


「俺って、クズ人間だったんだな……」


 天井にかざした紙切れに向かって、語りかけるようにそう呟く。一晩経って今更、後悔が波のように押し寄せてくるが、それと同じくらいの虚無感もある。


 太知に、俺が描いた絵を「好き」だと言われた時は。とても嬉しかったはずだ。

 なのに昨日、俺はそれを全部否定して、あろうことか太知を傷つけた。

「——どーすりゃよかったって言うんだよ」

 太知を傷つけるようなことを言った後悔と、それでも今の自分は全く描けない現実に。

 謝ることも、絵を描くことも出来ない俺はただ嘆くだけで。もう朝からずっと眺めている、太知の残して行った紙きれを空虚に眺め——。


 天井へと伸ばした手から力を抜き、床に叩きつけるように腕を倒した。


   ◇


「姉御、三千喜君どうでした?」

「——うん」

 お昼と呼ぶには少し遅い感じのする、午後三時。三千喜君の家に行ってたはずの姉御に呼び出されたウチは、近所のファミレスに来ていた。

「……姉御? ウチの話、聞いてます?」

「——聞いてるよ」

 姉御はそう返してくるものの、多分まともにウチの話を聞いてはいない。

 ドリンクバーから持ってきた、メロンソーダに差したストローをくるくる回しては「カランカラン」と小気味のいい音を出している。

「……どーしたんですか、姉御。そんな浮かない顔しちゃって。らしくないですよー?」

「————」

 ついに相槌すら返ってこなくなり、依然として氷をストローでつつく姉御。

 話したいことがあると言ってきたのは姉御の方なのに、一言も喋ってくれない。

 こうなるともう、ウチが姉御の喋りたいことを察してあげるしかないのだけど、流石にしんどい。

 今回はまぁ、前日に三千喜君の家に行ってたことを知ってるから、そこで何かあったんだろうなと想像することは難しくないけど。

「はあぁぁぁ……昨日、三千喜君の家で何かあったんですね?」

「——! 何で知ってんの」

「昨日、姉御が自分から教えてくれたんじゃないですか。そのことも忘れてたんですか? 全くもー……」

「——ごめん」

「謝らなくていいですから。それで? なにがあったんです?」

 三千喜君の家に行ったことは知っているけど、そこで何があったかまでは知らない。だけど、姉御の様子から察するに、嬉しいことじゃないのはなんとなく分かる。

 

 となると多分、喧嘩したとか言い争いになったとか、そんな感じのことだろう。最近三人で集まることも無かったし、お互いに少しすれ違ったくらいかな。

 ——と、そんな風に私は予想したのだけど。

「その、アタシ、そーやのことを待たずに、企業Vチューバーになろうと思ってる」

「……えッ⁉」

 姉御の言ったことが予想外で、私は思わず聞き返した。

 ウチや三千喜君がどれだけ言っても「そーやの絵がいい!」としか言わなかった姉御が。今更になって企業Vチューバーになると言い出してきたのは、いったいどういう風の吹き回しなのだろう。

 

 しかも、しっかり「そーやのことを待たずに」と言ってるあたり、それを選ぶということがどういうことかも理解しているはず——。

「あ、姉御……本当にいいんですか? あんなに三千喜君の絵が好きだって言ってたのに」

「——うん。もういいから」

 少し俯きがちに言った姉御の様子を見るに、今言っていることは本心じゃなさそうな気がする。

 だけど、姉御がVチューバーになるならあと一カ月しかないわけで。

 言いにくいけど、いつ描けるようになるのか分からない三千喜君を待つより、先に企業Vチューバーになっておいた方がウチはいいと思う。

 そう……思ってはいるんだけど。なんとなく投げやりになっている姉御の様子を見たら、このまま企業Vチューバーになっても後悔しそうな気がして。


「自己紹介動画を作って、企業に送ったら書類選考が始まります。そうなったらもう、引き返せなくなりますけど……それでもいいんですか?」


 どっちを選べばいいのか、なんてウチが決められるはずもなく。そもそも、この問題は姉御が考えるべきでウチはアドバイスしか出来ないし……。


 念を押すように確認を取ると、姉御は声を発さず静かに頷いた。


「……分かりました。じゃあ早速、姉御の家で自己紹介動画を作りましょっか!」

 自己紹介動画を作るなら、少しでも相手によく思って貰った方がいい。そう思って、沈み切った姉御の気分を上げる為にあえて明るく言ってみたけど。

「そうだな」

 明るいの「あ」の字も無い、聞いてるこっちまで気分が沈む暗い返事が返ってきただけだった。


   ◇


「ん~……おっかしいなぁー……?」

 姉御の家にお邪魔して、なぜかウチが上がっても何も言わなかった姉御のお母さんに疑問を抱いたのも束の間。

 出来上がった自己紹介の動画を見て、ウチは思わず首をかしげて唸ってしまった。

「——茜? なんか変だった?」

「あ、いえ。心配しないでください、取り直しが必要とかじゃないです」

「じゃあなんで、そんな不思議そうに唸ってんの」

「え、いやぁ……その、ウチの想像と全然違ったので」

 ウチの態度に疑問を感じた姉御に、ウチの考えが悟られないように。苦し紛れの笑いを顔に張り付けて、何とか誤魔化そうと試みる。

「——そっか。なら別にいい」

 それを聞いた姉御は、「別に最初から気にしてなんかいなかった」と言わんばかりにそう言って、ベットに仰向けになる。

 そんな姉御の様子に、ウチはほっと胸を撫で下ろした。

 自分でも言っていて「苦しいな」と思う誤魔化し方だったのに、それでも誤魔化せてしまうあたり姉御は単純な生き物なのかもしれない。

 

 まぁ、今回はウチより気になることが姉御の頭にあるせいだろうけど。


「——それにしても……」

 ウチの思惑を誤魔化せたことに安堵するのも程々に、出来たばかりの自己紹介動画を見返す。

 そこには、ファミレスでのやり取り含め苔の生えそうな雰囲気の姉御――ではなく、配信者として恥ずかしくない、明るく振舞う姉御の姿が映っている。

 

 そして、これが不思議なことに「無理している」感じが全くしない。

 

 普通、気分が落ち込んでいる人が無理に明るく振舞ったとしたら、どことなく「無理してそうだな」と相手に感じさせてしまうのに。動画の姉御をいくら見返してもそんな風には見えない。

 それがとても腑に落ちなくて、ウチの頭は混乱している。


 だって、動画から目線を上げて姉御の方を見れば、お気に入りのぬいぐるみを抱きかかえてベットに仰向けになっている姉御の姿が見えるんだもの。


 そんな姉御の様子は明らかに「悩んでいる」しかない。それも、昨日のことで。

 だというのに、動画の中の姉御はそれを全く感じさせない程の明るさで。いつの間に、こんな器用な芸当が出来るようになったんだろか。


 いや、姉御にそんな器用な芸当が出来るはずも無い。それは間違いない。

 ……となると実は、昨日の出来事は悲しいものじゃなかった、とか?

 何らかの話し合いの結果、姉御が三千喜君にお願いするのを諦めて、企業Vチューバーになると決めた。それはあってるはず。


 で、ウチはファミレスの姉御の様子からして喧嘩したのだろうと思っていたけど……実は違ったとか。

 例えば、姉御の要求が別の形で満たされることになったから、なんて。


「——……はっ‼」

 

 ぐるぐると頭の中で考えながら、ベッドに横たわる姉御を眺めてふと思いついた。

 

 ——まさかまさかまさかまさか! 二人が付き合ったとか⁉


 昨日の話し合いで、なんやかんやあって「絵は描けないけど付き合うことならできる」的な流れになって、姉御がそれを認めちゃった、とか⁉


 ……でも、それなら辻褄は合う。


 ファミレスの時の悩ましい表情も、今の思い悩んでそうな様子も、「三千喜君と喧嘩した」からじゃなくて、「流れに任せて付き合うことにしてしまった自分への罪悪感」だとしたら⁉

 付き合えて嬉しいけど、弱みを握って言わせた感じで申し訳ないとか? でも、それはそれでやっぱり付き合えたことは嬉しい的な⁉


 そうだ……絶対そうだ! 言われてみればそうじゃん!


 それに気付いちゃった今、姉御の表情が嬉しくてニヤけるのを隠そうとしているようにしか見えない!


「…………」


 いや、いやいやちょっと待って。一旦落ち着きなさいよウチ。

 付き合ったんならうちに報告くらいしてくれてもよくないかい? 報告されないってことは、付き合ってないんでしょ。


 ……あれ? 

 でも。姉御はVチューバーになりたいって思ってることをウチに教えてくれなかったような。

 つまり、今回も「揶揄われるから」って言ってウチに秘密にしていることは……。

 

 ——ある、あるな。というかそれしか無いですわ。


 そういうことなら、三千喜君にお祝いの言葉を送ってあげようじゃないか!

 姉御はシャイだから、ウチに直接言われたら顔真っ赤にして逃げちゃいそうだし。


 そう思って、スマホのメッセージアプリを起動して三千喜君に電話を掛ける。

「…………あれ?」

 出ない。三千喜君が電話に出てくれない。

 もう十コールくらいは鳴らしてんのに出てくれない。

 まぁいいや。それはそれで、姉御と三千喜君が付き合ったっていうウチの考えを裏付けるのに十分だし。……けども。

「————お前もシャイなんかいぃ‼」

 それだけは言ってやりたくて、ウチはスマホを床に投げつけながら大声を出した。

「あ、あかね……?」

 


 そんなウチの奇行に、姉御が戸惑いを見せたのは言うまでもない。

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