お見合いと一緒ですからね 1.4


  ◇


「マジで来たんですか……」

「うん。タオルありがとう」


 我が家の狭い玄関に、びしょ濡れで立つ太知は私服だった。


 まぁ、休日なんだから制服の方が変に感じるけども。


 すらっと長く白い足を惜しげも無く見せるショートパンツと、ぬいぐるみを象った刺繡のされたタンクトップの上に黒いパーカー。

 このパーカーは多分、太知がいつも腰に巻いてるやつだ。


 そんな超ラフな格好の太知は、下着が透けて見えそうなほどびしょ濡れだった。

「……まだそんな、涼しそうな恰好をする時期じゃないだろ」

「そうなんだけどさ、雨凄いから濡れてもいいようにって——へくち!」

 タオルで濡れた髪を拭きながら、やけに可愛いくしゃみをする太知に俺は困惑しかしない。

「俺ん家に来るのは構わないけど……なにもこんな、大雨の中来ることないだろ」

「しょうがないじゃん、家追い出されちゃったんだからさ……へぶっ!」

「――いや、え? それ、マジな話なの?」

「うん、マジ。本当にどうしようかと思った」

 

 ここに来る前、太知はメッセージアプリで「追い出された」と伝えてきた。

 だが、それがまさか本当にそうだと思うはずも無く、追い返すつもりでいたのに。

「どーすんだよ……」

 

 本当に、色々とマジでどうしたらいいものか。

 家出してきた太知も、相変わらず見えない色のことも……全て。


「もしかして、アタシが来たの迷惑だった……?」

 しかし、俺が思い悩めば太知は申し訳なさそうに上目遣いで聞いてくる。

 ——迷惑という訳じゃない。会いたいなんて思ってたりした。

 だけど、気まずいのも事実。

 

 この三日間で起こった色々なことと、俺の今の現状をどんなふうに伝えたらいい? 

 

 帰ってほしいけど、帰ってほしくない気もする。俺の気持ちはメトロ―ノームのように、その二つの感情の間で揺れ動く。

 だいたい、なんで俺ん家なんだよ。柊木の家とかでもよかっただろうに。間がいいのか悪いのか、ジャストタイミングで来やがって……。


「……別に迷惑なんかじゃない。けど、明日の朝には帰れよな」

 そんな俺の気持ちの揺らぎは、家に吹き付ける風の音が強くなったことであっさりと決着した。

 

 ——台風が上陸したら、電車も流石に止まるよなぁ。というか流石に、こんな天気の中を女子一人で帰らせる訳にもいかないか。


「うん、分かった! ありがとう!」

 どこか言い訳じみた理由で太知を家に上げたのに、太知はにこやかに笑ってお礼を言ってくる。その笑顔がとても眩しい。

「――とりあえずまず、風呂入れよ。そのままだと風邪ひくから」

 そんな太知に見つめられるのが耐えられなくなって、俺は背中を向けてそう言った。


   ◇


「着替えここに置いとくぞー。あと、お前の着てた服は洗濯機に入れたからなー」

「うんー、わかったー」

 女物の服なんて持ってないので、適当に俺の服から着替えを見繕って洗面所の椅子の上に置いたことを伝える。

 ——と、浴室から艶めかしい水音とくぐもった返事が返ってきた。

「あ、そーや、ちょっと待って! これ、シャンプーどっち?」

「……あぁ、台に乗ってるボトルの一番左のヤツ。一番右がボディソープな」

 それを答えて洗面所を後にするつもりだったのだが、俺の脚は止まったままだった。——別に、太知の裸を見たいとかそういうんじゃない。

 ただ、今の俺には太知に伝えないといけないことが数多くあって、それを言うタイミングを模索してるってだけだ。

 いやでも、太知は今日泊っていくんだし、言うタイミングは今以外にもある。


 そう思って再び洗面所を離れようとした時、今度は太知の声に呼び止められた。

「そーや? まだそこにいるー?」

「あぁ、ごめん。今、洗面所から出るから……」

「ま、ちょっと待って! せっかくだから少し話したくてさ!」

 

 ……なにがせっかくなんだよ。風呂入りながら会話せんでもいいだろ。


 そんな、さっき俺が考えていたことなど棚に上げて頭の中でそれを言う。

 だけど体は、浴室と洗面所を仕切るドアに背中を向けてそこに座っていた。

「——いいよ。俺も伝えないといけないことがあるし」

 そして気づけばそう言っていた。なんともまぁ、我ながらはっきりしない人間だな。

「その伝えないといけないことって——もしかして、あの方法が上手くいかなかったとか?」

「そうだよ。頼んでみたけどダメだった。ごめん。……にしてもよく気付いたな」

「それは、ほら……そーやの元気が無いのに気付いてたし」

「そんなに分かりやすいか——? 元気が無いの」

「うん、結構はっきりわかるよ」

 自分の中では普通に、いつもよりちょっとテンションが低いくらいのつもりだった。だがどうやら、周りからは思ったより深刻そうに見えるらしい。


 ——太知に心配をかけてしまうくらいには。


「その……アタシが今日来たのは、アタシと母さんの約束のことは気にしなくていいよって、そーやに伝えたかったからなんだ」

「——え……?」

「最近のそーや、学校でも元気が無かったし、それは多分、アタシが無茶なこと言ってるせいだと思ったから……」

 表情こそ見えないが、一言ずつ言葉を選ぶ様に話す太知に、俺の心はまた締め付けられているように痛んだ。

 太知の純粋な優しさが、今の俺には消毒液みたいに沁みる。

「アタシのせいでそーやに無理させちゃってるからさ。それを、謝りたくて」

「そんなの……むしろ謝るべきなのは俺の方だろ」

「え——? いや、そーやは頑張ってる……っ」

「なにも頑張ってねーよ。……なにも」 

 

 そうだ。何もやってない。


 太知がVチューバーになる為にトーク力を鍛えてる間、俺は何をしてた? 

 太知の特訓に協力してるふりをして、イラストを描くことから逃げてただけだ。

 そうやって逃げてるだけのやつが、いざ描きたいと思ったって描ける訳がない。

「ごめん——本当は、太知が俺の絵が好きって言ってくれた時、嘘を付かれてるって心のどこかで思ってたんだ。きっと太知も、心の中では「気持ち悪い」って思ってるんじゃないかって……ずっと疑ってた」

「——そう、なんだ。それはちょっと、悲しいな……」

「でも、違うって気づいたんだよ。あの日お前が、「私が変わりたいって思ったから」って言った日。太知は本気でVチューバーになりたいと思ってて、本気で俺の絵が好きなんだなって……。それで、俺も変わりたいって思ったんだ」

 だけど結局、何も変わりはしなかった。俺は変われなかった。

 それでも、太知が変わる手伝いだけでもできたらと思ったけど……結局この有り様だ。

「——ごめん、太知。俺は多分、もう絵が描けないんだよ」

 だから、これ以上俺に関わらない方がいい。

 これ以上俺に拘っても、太知の時間が無駄になるだけだ。

「だからもう、俺のことなんて気にしないで企業Vチューバーになった方が」


「アタシはっ! そーやの絵が好きなの‼」


 その俺の言葉は、全部言い切る前に声を荒げた太知に遮られた。

「——! だからッ! 俺はもう、描けないんだって……」

「そりゃ描ける訳ないでしょっ⁉」

 俺の言葉を遮った太知の声より大きい声で言い返した。

 ——が、そんな俺の声より大きい声でまた遮られてしまう。

「アタシが好きなそーやの絵は、いつ見ても輝いてた‼ そーやのことを知りもしなかったのに、絵を見ただけで「絵を描くのが好き」なんだって伝わってきた‼ そんな、見てて嬉しくなる絵がそーやの絵なのに……! 今みたいに辛そうな顔して描ける訳ないじゃん‼」

「————ッ‼」

 その言葉がとても苦しい。自分のことは自分が一番分かっていると思っていた。

 だけど実際の所、俺は何も自分のことを分かってなどいなかった。

 太知に言われるまで、自分の絵がどういう風に見られてるのかすら知らなかったのに。

「なんだよ……随分、分かったような口きくじゃん」

 それが悔しかったからなのだろう。気づけばそんなことを口走っていた。

「——ちが、そんなつもりじゃ……」

「そんなつもりじゃない? よく言うよ。イラストレーターだった俺に対して、偉そうに分かったこと言ってきてさ。……まともなイラストも描いたことすらない奴が。なにいい気になって言ってんの?」

「そ、そうじゃなくて! ただ、さっきのはアタシの思うそーやの絵って、もっと輝いて見えたっていう、ただそれだけで——!」

「輝いてるわけねぇだろ‼ あんな絵が‼」

 

 そうだ、輝いているわけがない。太知の好きだって言ったあの絵は、気持ち悪いものでしかないはずだ。


 ——だって「そう」言われたのだから。

「よく、こんな気色の悪い絵を描けるよね」と。


「…………ごめん」

 だけど、感情に任せて言い放った俺の言葉を聞いた太知は、一言謝るだけだった。

 そんな太知の態度で、俺はようやく、自分が言ってはいけないことを言ったのだと気付いた。

「————もう、いいよ」

 しかし、口から出てしまった嘘偽りのない本音を、今さら取り消す気にもなれなくて。 

 

 黙って目を瞑ったら、太知が切なさを孕んだ声で静かにそう言った——。

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