「感情最大の敵は親である」 1.6
◇
「じゃーね、おねーちゃん! ありがとう!」
「うん、気をつけて帰りなよー」
そう言って子供に手を振る太知の手には、ついさっきパン屋で買った、クリームパンの入った袋が握られている。
「……まさか、クリームパンを粗末にされてキレてるとは思わなかったわ」
「まーね。アタシ、ここのクリームパンが好きでさ」
子供の姿が小さくなるのを見送ってから、太知にそう声を掛ける。
——と、さっきまで人を蹴り飛ばしていたヤツとは思えない程、気さくな返事が返ってきた。
「毎週月曜日は、帰り道に買って帰るって決めてんの」
「なるほどね。どおりで店の人から嫌な顔をされないわけだ」
さっき、太知は結果的に子供を救ったわけだが、その方法はただの暴力だ。傍から見た人が「喧嘩をしている」と勘違いしてもおかしくはない。
それを自分の店の近くでやられたら、普通は「イメージが下がる」と思うだろう。少なくとも、喧嘩していた奴に笑顔で接することはない。
——あくまで、俺の中での話だが。
しかし太知は、嫌な顔をされるどころか、「おまけ」としてクリームパンを貰っていた。そのことを俺は不思議に思ったのだが、常連ということなら納得だ。
「なんだよ、少し喧嘩しただけじゃんか。そのくらいで嫌な顔してくるほど、パン屋のおばちゃんたちは心狭くないから」
「——あれで「少し」の喧嘩なのかよ」
んなわけあるか。
人が蹴り飛ばされるほどの喧嘩は、決して「少し」で済むもんじゃないわ。
しかし、そう言ったら俺も蹴り飛ばされそうなので黙っておく。
「少しだよ、少し。多い時は十人くらいいるけど、今回は三人しかいないから」
「いや、人数の問題じゃないだろ……」
「別にいいでしょ、そんな事。——それより早く、アタシん家に行こう?」
「お、おう……分かった」
そして再び歩き出した太知に続き、俺もその後を歩く。
あとどれくらいで太知の家に着くのか知らんが、そう遠くはないだろう。
なにしろ「ちょっと」の寄り道だって言ってたし。
「もう、すぐそこだからさ。アタシん家」
と、俺の考えていることが分かったのか、太知がそう言ってくる。
さっき、パン屋で買った「クリームパン」を食べながら。
「へー……ここら辺かぁ」
言葉だけはそう返しながら、視線は太知の頬張っているクリームパンを見ていた。
太知が頬張るクリームパンを見ていると、なぜか俺もお腹がすいてくる。
そしてまた、太知の食べているクリームパンが無性に食べたい。
ヤンキーの太知が好きだと絶賛する、クリームパンの味がどれ程のものなのかすごく気になる。
もはや俺の頭の中はクリームパンに占拠されていた。そして、そのことに太知も気付いたのだろう。
「——食べたい?」
「食べたい。もう一個残ってるやつちょうだい」
少し上目遣いで「食べたい」か聞いてくる太知に、俺はまだ袋に残ってるクリームパンを指しながら即答した。
そんな俺に、太知はむっとして頬を膨らませる。
「……ダメ。もう一個もアタシが食べるやつ」
「な……お、お前すでに一個食ってんだからいいだろ⁉ 一個くらい分けてくれたってさ」
「絶対にダメ。これはアタシが貰ったもんなんだから。だいたい、食べたいならさっき買えばよかっただろーが」
「いや、そりゃそうだけどさ……」
太知の言うことはごもっともだ。正論過ぎて耳が痛い。
だけど、直前までパン屋に行くことを知らせてくれなかったわけだし、そもそも、今の今まで食べたいとすら思っていなかったんだ。
そんな俺に、一個くらい分けてくれたってよかろうに。
お金なら払うから。
「……分かったよ。別に一個くれとは言わないからさ、少しだけ食わせてくれって。できれば半分くらい」
俺がそう言うと、太知は自分の持っているクリームパンへと視線を落とした。
「——まぁ、それくらいならいいか」
そして一言呟くと、そのまま俺の口へとクリームパンを差し出してきた。
「ん——!」
「え……?」
その意図が分からず、俺は太知に聞き返す。
「一口あげる。だから、ほら」
太知はそう言いながら、俺の顔に向けてクリームパンを差し出してくる。そんな太知に俺は戸惑った。
これは、間接キスになるのでは? と。
「いや……え、いいの?」
「いいって言ってんでしょ? ほら」
変わらず差し出してくる太知の態度を見るに、多分「そのこと」に気付いていない。
それをラッキーと捉えて、クリームパンに齧り付くことも出来るが。この太知とか言うヤンキーは以外にも純情なのだ。
俺が「これ幸い」と一口貰った後で、間接キスの事実に気付き、照れてぶん殴ってくるなんてことがない訳じゃない。
……まぁ、最近の太知を見るにそんなことは無いだろうけど。照れはすると思うが、多分ぶん殴ってくることは無いと思う。
だがしかし、直前まで太知はヤンキーを紙きれのようにぶん投げていたりしたわけで。
照れ隠しに拳が飛んでくる、なんてことは普通にありそうだ。
俺は何も悪くないのに殴られるのは勘弁願いたい。
「……いらないの?」
食うか食わぬか、教えてやるか、やらないか。そのことで俺が葛藤していると、太知が俺の顔を覗き込んでそう聞いてくる。
そんな太知の唇に、俺の目は自然と釘付けになった。
小さ過ぎず、かといって極端に大きい訳でもない。ちょうどよく形の整った「それ」は、午後になって赤みを帯びてきた陽光を艶やかに反射する。
触ればフニフニと柔らかそうで、艶かしい光沢を放つ唇。
——触りたい。
本能に突き動かされ、能動的にそう思った。
「……そーや?」
その言葉に合わせて動く事すら、俺の欲望を搔き立てていく。
がしかし、太知の声によって吹き飛ばされたはずの理性が戻ってきてしまった。
その戻ってきた理性は、さっき俺が抱いていた感情を「変態だ」と言い切る——。
いや、本当にその通りだ。
あのまま欲望に任せて太知の唇に触ろうものなら、さっきのヤンキーたち以上にボコされていたかもしれない。「欲は身を失う」という諺があるが、こういうことを言っていたのか。
「結局食べないのかよ。それなら「食べたい」なんて言うなよな」
——と、俺が危うく身を滅ぼしそうになっていたことなど知る由もない太知は、そう言いながらクリームパンを俺の顔から遠ざけた。
そして自分の口へと運ぼうとする。
「……いや、食うけど?」
「へ……⁉」
そんな太知の腕を掴み、俺は食べかけの部分に齧り付いた。その俺の行動に、太知が短く驚きの声を上げる。
とはいえ、自分でも「大胆な行動を取ったな……」と思った。
普段の俺なら、絶対にそんなことはしないだろう。
というか、殴られる気しかしないんだが。よりにもよって自分からいくなんて。太知から差し出されたなら「お前が出してきたんじゃん」と、言い訳が言えたのに。
何をやっちゃっているんだろうか、俺は。
――そう思ったものの。
よく考えればさっきまで思っていたことに比べれば、「間接キス」なんて可愛いものだ。
「……おぉ、結構美味いな。このクリームパン」
蕩けるくらい甘いクリームだが、不思議とさっぱりしていてしつこくない。
甘ったるいものは大抵、一口食べれば満足してしまう俺だが、このクリームパンはもう少し食べたい。
そんな感想がすぐに出てくるほど、羞恥心は感じなくなっていた。
「——そ、そっか。それは良かったナ!」
「うん。めっちゃよかった」
若干カタコトになりながら、歩く速度を速める太知。
そんな太知にそう返した俺は、満足感と高揚感に満ちていた。
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