「感情最大の敵は親である」 1.3


   ◇


 あぁ、天国はここにあったのか——今はただ、全てがひたすらに心地いい。


 柔らかく、それでいて程よい反発感のある枕。甘い匂い。耳に当たる指の感触。

 時々顔にかかる、甘い吐息……。それら全てが、全力で俺を睡眠へと誘っている。

 しかし俺は、眠ることに抵抗しようとしている訳じゃない。

 目を閉じてしまうほどリラックスしていて、それでいて今の心地よさを噛みしめる、夢心地の浮遊感。

 思考も邪念も本能も、全てが等しく無になって、代わりに安らぎだけが俺の中にある。

「どう……? 気持ちいい?」

「あぁ、めっちゃ……めっちゃ気持ちいい」

 自分でも聞いたことのないくらいふやけた声が出たが、そんなこと気になりもしない。


 至極極楽。天国は美少女の太腿の上にあったのだ。


「そ、そーやの耳って、結構きれいなんだね……」

 と、俺が四肢を頬りだして極楽を噛みしめていれば、時折太知の恥ずかしがっているような声が聞こえる。

 それもそのはず。今の太知は、柊木によって強制的に口調を矯正されているのだ。普段の太知であれば、俺のことを名前でなんて絶対に呼ばないだろう。

 故に恥ずかしいのだろうが……それもまたいい。

 なにかこう、恥ずかしがりながら、普段しない喋り方をする所に新鮮味を感じる。ギャップ萌えとでも言うべきか?

 しかし、そんな思考も数秒で泡となって消えていく。

「ふーー……」

「あ、それ、それめっちゃ気持ちいい——」

 俺の耳に向かって優しく息を吹きかけた太知に、俺は無自覚にも「もう一度やってほしい」と口に出していた。

 もはや今の俺は思考していない。理性なんてあってないようなものだ。

 ただ本能的に、心地よさだけを求めている。耳かきをしてもらう前、無駄に拒否していたのがバカらしいと思えてしまうくらいに。

 

 なぜ俺は、こんな心地のいい体験を頑なに拒否しようとしたのだろうか。控えめに言って最高じゃないか。半ば強引に話を進めてくれた柊木に感謝しないとな。


 そんな気持ちを最後に、俺の意識は次第に溶けていき——。

「ねぇ、そーや……」

 ほぼ消えかけの意識の中で、天使の羽音が聞こえた気がした。

「ん…………」

「アタシのこと……好き……?」

「す——き……」

 

 辛うじて聞き取ることの出来た「すき?」という言葉に、好きと答える。

 こんな心地のいい体験なら、一度と言わず毎日したいくらいだ。

 

 そう思った時には、徐々に薄れていた俺の意識は天に昇っていた。


   ◇


「——おはよーございまーす!」

「…………」

 次に俺の意識が戻ってきたのは、そんなやかましい声が聞こえた時だった。

「早く起きてよ、三千喜君ー? 姉御が足痺れちゃったってー‼」

「んぁ——」


 誰だ、うるさいな。

 もう少し寝かせてくれよ。せっかく気持ちよく寝てたってのに。


「はーやーくー! 起きろっ‼」

「あぁ……」


 にしても、誰かに起こされるなんて随分と久しぶりな気がする。

 うざったいはうざったいのだが、どこかちょっと温もりみたいなのを感じて、嫌がるにも嫌がれない。

 まぁ、それはそれとして。もう少しだけ、この寝心地のいい枕を味わいたい。

 

 そう思って、俺は自分の頭の方へと腕を動かした。

「ひぃッ⁉」

「おわ――っ⁉⁉」

 だが、枕に触れた瞬間、奇怪な悲鳴が頭の上で聞こえ、同時に枕が動いた。

 

 ——ん? 枕が動いた?


「あ、太知。ごめん」

 枕が勝手に動いたことに驚き、微睡みの中にいた俺の意識は一気に覚醒する。

 そうして寝ぼけ眼であたりを見渡せば、恨めしそうに俺を見ながら自分の足を擦る太知の姿があった。

「痛い……」

「あーあー。三千喜君、これはあんまりだよー。姉御がせっかく三千喜君のために頑張ってたのに」

「悪い……てか俺、寝落ちしてた?」

 いったい何時頃に意識が消えたのか、徐々に鮮明になってきた目であたりを見渡すと、部屋の電気がついていた。

 たしか、耳かきを始めた時は電気をつけていなかったはずだ。

「えぇ、そりゃあもうぐっすりと‼ 姉御の膝の上で気持ちよさそうな寝息を立ててたよ?」

「——マジか。ちなみに、どんくらいの時間寝てた?」

「んー、ざっと一時間半ってとこかなー」

 一時間半……。その間ずっと、太知は正座した脚の上に俺を乗せてくれてたのか。

 それは足が痺れて当然だ。

「ありがとう、太知。おかげでよく寝れたよ——」

「——っ‼ ……うん、まぁ、どういたしまして」

 寝起きなのに不思議と気怠さを感じることなく、俺は座り直しながら太知に感謝を伝えた。

 しかし、それが恥ずかしかったのか太知は赤らめた顔を逸らしてしまう。

「……? もしかして俺、寝てる間になんかした?」

「んー? どうだろうねー? 自分の心に聞いてみろよー!」

 ニマニマと隠し切れない笑いを顔に湛えて、柊木が冗談とも本当とも取れない返事をする。そんな柊木にこれ以上聞いても無駄だと判断し、太知へと視線を向けるが逸らされた。

「——え?」

 太知にも相手にされず、困り果てている俺に「仕方ないなぁ」と柊木が口を開いた。

「まぁ、ウチから一言だけ言うなら……ご馳走様でした‼ って感じかな」

「……え⁉」

 

 ご馳走様でした——って何⁉ 俺は一体何をやらかしたんだ⁉

 怖い……とてつもなく怖い! 自分の意識がなかった間に何が起こったのか、想像することすら出来ないのが余計に怖い! 


「まー、とにかく。三千喜君が寝てる間に姉御と話したんだけど、ちょっとずつトークのコツ掴んだって!」

「お、おう……それはいいことじゃん」 

 危ない、完全に今日の本題を忘れていた、熟睡してすっかり忘れていたが、今日も太知のトーク力を上げる特訓をしていたのだ。

「……ん? てことはこれからも耳かきASMRをやってくってこと?」

「そうそれ、ウチもそれがいいかなーって思ったんだけど、姉御は変えたいって言ってて。……ですよね? 姉御」

「うん、その……今日は茜に考えて貰った言葉を言ってただけだから。その、やっぱり自分で何を言うか考えられるようになった方がいいと思う」


 さっきまで顔を赤らめていたかと思えば、今度はやけに真剣な表情で太知は言った。


「それはまぁ……そう出来れば一番いいけどさ」

 だが、俺は別にそこまで無理する必要がないとも思った。

 これは決して、「もっと耳かきをして欲しいから」とかそういう理由では無く。

 たしかに、太知が一人で考えて喋れるようになることに越したことはない。ただ、何事にも慣れは必要だ。

 成果が出ないことに焦って、慣れる段階を飛ばしてしまえば挫折するしかない。

 そして、今の太知からはそんな「焦っている」雰囲気をどこか感じるのも事実。


 手助けらしい手助けが出来ていない俺だが、ここまで一緒にやってきた以上、太知に途中で諦めるなんてことはして欲しくない。

 ただ、慣れが必要とはいえいつまでもそれに甘えている訳にはいかない。慣れたことに満足して立ち止まっているようじゃ、結局そこ止まりにしかなれない。


 今の太知は、いったいどっちなのか……。


「そのさ……そんなに焦る必要はないんじゃないか? Vチューバーになるのに年齢制限なんてないだろうし。それにほら、俺だってまだ色が見えてないわけだしさ」

 

 俺がそう言うと、太知は俯いて暫く黙り込んだ。

 多分、俺の言ったことを自分なりに考え直しているんだろう。

「——でも、やっぱりアタシは今がいい」

 そして顔を上げて、決意に満ちた表情でそう言った。

 そんな太知に、なぜか俺の胸が痛む。

「あ……こ、これはその、そーやに急げって言ってるわけじゃなくてだな⁉ アタシは色が見えなくなったことなんてないし、治るまで待つって言ったのはアタシだからそれは待つんだけど」

「……それは分かってるよ」

「そ、そっか。そ、それで……その。Vチューバーになりたいって言ったのはアタシじゃん? そのアタシがそーやのことを言い訳にして、今の自分で満足するのは違うと思うんだ……」

 

 それを聞いて俺の胸がまた、今度は一際強く痛んだ。

 その痛みが、否応なく俺に思い知らせる。「お前はいつまでそうしているんだ」と、語りかけてくる。


「なんで、なんでそう思ったんだよ。今の自分で満足するのは違うって」

 それは、俺が太知に抱いている僻みのようなものなのだろう。聞いたくせにその答えを聞きたくなくて、吐き捨てるようにそう言った。

 だけど、それを聞いた太知は一瞬不思議そうな顔をしてから、

「アタシが、今のアタシから変わりたいと思ったから」

 前髪で目を隠した俺に、太知は目を逸らすことなく真っ直ぐにそう言った。

 一切の迷いも照れも無く、真っ直ぐに。

「あぁ、そうか……」

 

 つくづく俺は、ヤンキーという存在が苦手みたいだ。

 バカで考えなしで暴力的で、何かあればすぐ拳に訴えようとする癖に。

 その感情は眩しいくらい真っ直ぐなんだこいつらは。


 いや……違う。バカで考えなしなんかじゃない。

 

 自分の夢や目標に対しても真っ直ぐに進んでいける太知みたいなやつを、俺が勝手に僻んで「もっと利口なやり方があるだろ」とバカ呼ばわりしてるだけじゃないか。

 

 ——クソダサい。みっともねーわ。勝手に上だと思ってたのが恥ずかしい。


 自分に腹が立つ。


「なぁ、太知。お前さ、具体的にはいつ頃までにVチューバーになってたいんだ?」

「え……っと。そうだな、二年の夏休みにはなりたいって思ってたから――」

「てことは、あと三カ月だな」

 三カ月、それだけあれば十分だ。

「そ、そーや? 急にどうしたん……」

「三か月後の八月! それまでに色を見えるようにして、お前のモデルを描く!」


 俺が嫌いだったのは、ヤンキーでも自分の描いたイラストでも、ましてやアイドルでもなかったらしい。

 一番嫌いだったのは自分自身だ。

「——⁉ それって…………!」

「期待して待っとけ! 俺の最高傑作を描いてやる」


 太知に向けて人差し指を突き出し、高らかにそう宣言した。

 そして、それを聞いた太知の表情が見る見るうちに明るくなっていく。

「——分かった! 待ってる!」

 

 俺は極度のめんどくさがりだ。

 何かと面倒事に巻き込まれれば、すぐに楽な方へと逃げる。自分の目標でさえ、簡単に投げ出せてしまう。


 ……そんな俺が、簡単に変えられない自分を変えるのは無理かもしれないが。

 

 変わろうとしてるやつの、太知の手伝いくらいは出来るはずだ。

 いや、手伝いたい——と、そう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る