第8話 変態に忍び寄る影
地球で言うところのハンガリー平原にはこの世界にもブダペストという名の都市がある。
グルール辺境伯領内一の都市として栄えている。
昔ドナウ川を挟んで、ブダとペストという街があり、その2つが合体して誕生したらしい。
まあ、それはいい。
問題はハンガリー平原の方にあった。
その歴史の話である。
そもそもグルール辺境伯の一族はこの地に後からやってきた新参者だ。
とはいえ、それも200年も昔のこと。
今となっては地元を治めるのに十分な権威を持っている。
半農半牧の生活もここ数十年は何も問題がない。
しかしだ。
それでは問題がある者達がいた。
古くからこの地域に住む完全な遊牧民、要は古参勢である。
勝手にやってこられては牧草地を分捕られる。
それだけでも癪に障るものだが、それ以上に問題だったのは農耕だ。
遊牧する分には移動をするから彼らとしてもグルールの一族が去ったところが一応使える。
ノープロとは言わずとも力関係からして当たり前である。
勘違いしがちであるから補足するが、遊牧民というのは残酷なまでに実力が物を言う社会だ。
力関係に差が出てくれば駆逐されるか、自ら大陸の端まで逃げ去るかのどちらかである。
しかし、逃げた先はもちろん土壌の良くない土地であるから同じように逃げてくる遊牧民によって滅ぼされてしまう。
そんなこともあって、遊牧民の発生する場所は世界でも決まっている。
モンゴル高原、ウクライナ、ハンガリー平原、トルキスタン、、、
一度そこを出発してしまえば民族的に死出の旅になる。
だからこそ、遊牧民の楽園たる土地を守ることが一族を守ることに繋がる。
土着の遊牧民がこの地に残るのにはそれなりの理屈がある。
牧草地とて足りるはずである。
ただ、農耕を始めなければの話であるが。
一度農耕が始まればそこは牧草地に戻ることはない。
そのため、土地の固定化は遊牧民の最も忌み嫌うところであった。
地球における中国史を見てもらえば、豊かな乾燥地帯である華北に鍬を入れさせまいとする遊牧民の執着がわかるだろう。
それに対抗して遊牧社会との敷居を作るべく、中国文明が作り上げたのが万里の長城である。
暴君の称号になりがちなそれであるが、その価値観は血統の半分が遊牧民である唐に依存している。
煬帝の暴君っぷりはあくまで唐の第二代皇帝李世民を神格化するためであることは歴史的事実である。
閑話休題。
ともあれ、遊牧民があまり持つことのない執着のうちで最も強烈で生存に直結するものが、ハンガリー平原にいる古い遊牧民を追い詰めていた。
あまりの窮乏に今では"馬賊"となってフットウントとバートルモを往来する隊商を生活の糧とするほどまでに至ってた。
そして、それを見逃すほど辺境伯家は愚かではない。
自然、対立は深まる。
ウルスラの夫が亡くなったのも大きな流れとしてそのような因縁じみたものがある。
ウルスラとて夫の仇を討つべく、辺境伯の軍を総動員して討伐にあたったのだ。
復讐の連鎖は途絶えない。
「ウルスラ、息子の仇!」
「グルールの奴らめ、また我らの一派を潰しおった。」
「我々ももう我慢ならん。」
これらの不満の声を抑えていたこの地の古老がここにいる。
「大長老。」
「わかっておる。儂とて我慢できんわ。だが、あの女がおる限り下手に手を出せば今度こそ一族郎党皆殺しよ。」
その怒りは事に老いた彼といえども抑え難い。
それでもなんとか抑えようとしていた。
運悪くそこに飛び込むのは急報。
「なに、、、フットウントがバートルモと婚姻同盟だと、、、!!?」
それは最悪の知らせであった。
これでもうフットウントとバートルモが戦争をすることはない。
グルール辺境伯に抑圧されてきた彼らは、それを座視し、時には討伐まで行ってくるバートルモも大の嫌いであった。
その意味でいくと、バートルモというのは敵の敵は味方式で利害は一致していた。
、、、バートルモ側からは東西交易を妨げるので、実のところでは疎まれている。
特にビュフェスはそれこそ大の嫌いであったが。
それはともかく、彼らは窮地に立たされた。
(これではグルール辺境伯からの圧力は更に高まるばかりだ。)
この場で報告を聞いた誰もがそう思った。
そして、初めにブチギレたのは長老であった。
「できるだけ早く、講和が成立するより早くウルスラを殺さねば。」
物をよく知っているからこそ、これは駄目なサインであることが理解できる。
(座して待てば全て終わる。)
もう目には狂気すら宿っている。
どうにでもなれとでも思っていよう。
そこにもう一報の報告が入り、火に油が注ぎ込まれた。
「ビュフェス姫が講和交渉のためにこちらへ向かっている様子です。」
「なに!」
「さらに、、、」
「さらに?」
「あの憎きウルスラが少数の護衛のみを連れてビュフェス姫を出迎えたようです。」
「ほう。」
悪い思案が浮かび上がってきたと言わんばかりの顔で髭を撫でる長老。
前のウルスラの夫を殺した罠の計画を立てたのも、この人物だ。
「今すぐ行ってちゃちゃっとやってきましょう。」
長老の周辺では血気盛んな者達が今にも飛び出しそうな風情だ。
「いや待て待て。この戦さだけで全てを決着させねばならん。全ての一族を集める。はてはて、儂の人望はまだ残っとるかの。」
疑問形で言葉を発した長老だが、自分が声をかければ残りの一族の戦士数千人は集められると踏んでいた。
「辺境伯には気づかれんようにな。まあ、ウルスラの息子はボンクラじゃから大丈夫じゃろうが。」
ヒッヒッヒ、と悪党のテンプレのような笑い声をするのも、自分の心の狂いきれていないところでは一族の滅亡を予感していることを隠さなければならない長老の、嘘偽りのない心の発露でもあった。
*
数日のうちに密謀は進む。
一族の大方の支持を取り付けた長老だが、計画を大幅に早めなければならなくなった。
その理由はハンゲル皇太子とシュタント侯爵の軍が予定よりやってきていることであった。
「準備は万全ではない、、、がゆくしかあるまい。かつてローマンの将軍が言ったそうだ、『賽は投げられた』と。今がその時じゃ。」
準備不足でまだ半数の1500騎程しか集められていないことに苛立ちながらも長老はここに至っては無駄なことよ、と自らの苛立ちを卑下した。
(幸い我が一族は皆馬を操る。1日も経たぬうちに平原の端々から増援が駆けつけるじゃろ。)
果たしてその言葉通りであった。
長老が出陣してビュフェスの進路と退路に隊を埋伏させる時には2000騎を超え、さらに集まっている。
(必ずや、勝つ。)
*
「ご主人様、囲まれております。」
水着と同じくらいの布面積しかないメイド服を着て、馬上で器用に茶を淹れていたシュエルは言った。
「うん、匂いがするね。」
とウルスラ。
「ふむ、騎兵は伏兵に向かぬというのにこれほど近くまで寄られるとは。今頃前方のエーゲルなどは陣形変更かな?我々も動かねばな。」
悠々と自然に指示を出すビュフェス。
敵の襲撃に対し、やはりな、という顔をするウルスラ。
さらに布面積を減らすことを模索し、服という概念にすら疑問を抱くシュエル。
「次は紐ですかね。」
「「えっ?」」
凄惨な生存競争が始まろうとしていた。
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