初恋は海模様
天井 萌花
誰が何役
私の初恋は、人魚姫へ抱いた――ほんの小さな泡だった。
私は10歳の夏休み、この町に引っ越してきた。
潮の匂いが鼻をくすぐる、海に面した小さな町に。
潮風に当たると髪が駄目になると聞いた時は嫌だったが――新しい家に向かう途中、車の窓から見えた青と白の煌めきに全てを許してしまった。
「やぁだぁぁ! 絶対やりたくない!」
――折角晴れた私の顔には、たった3日で雨が降り出してしまったのだが。
折角海の近い町なんだから、マリンスポーツを楽しまなきゃ! なんて、母が言って。
じゃあ俺ダイビングしてみたい! とか、兄が言って。
申し込んどくから、
いつの間にか、私までダイビング体験をすることになっていたのだ。
「直前でごねんなよ……」
兄の困ったような顔が、マスクに隠れてあまり見えない。
仕方がないからやろう、と思っていたのだが。
着替えも済んでさあ海に入ってみようという所で、急に嫌になってしまった。
あんなに綺麗だと思っていた海面が、近くで見ると口を開けた大きな
「人魚に会えるかもーとか言ってたじゃん」
溜息交じりの兄の声は、呆れているのが丸わかりだ。
私の趣味は小学生にしては少し子供っぽく、絵本が好きだった。
海に潜ると聞いた時は、人魚姫が見れるかもしれない、なんて子供じみた期待を膨らませたものだ。
「でも嫌ー」
インストラクターの人が大丈夫だよ、なんて言葉をかけてくれるが、恐怖は薄れない。
溢れ続ける涙を拭った腕を――誰かが、優しく掴んだ。
「――大丈夫、一緒に練習してみよ!」
驚いて、涙が嘘のように引っ込んだ。
顔を上げると、丁度私と同じくらいの背の女の子が、目の前に立っていた。
「ダイビングって言っても、そんなに深いとこには潜れないよ? それに最初は足がつくくらい浅いところで練習するの」
手を離した彼女がマスクをずらして、その素顔が見えるようになる。
日に焼けた少女の、ニカッと明るい笑顔だった。
「プロの大人もついてるから、安心なんだよ。途中でやめれるし、私が一緒にいてあげるから! ね、入ってみよ?」
離したばかりの手を、彼女がまっすぐ伸ばしてくる。
「……うん」
私は彼女とは正反対の弱々しい声で言って、その手を取った。
本当に大丈夫だと思ったのか、勢いに押されたのかは、よく覚えていない。
聞けば彼女の両親はダイビングスクールで働いており、彼女も慣れているらしい。
浅い所からゆっくり海に入り、顔をつけてみたり、少しだけ泳いでみたり。
私の幼児のような練習は、そんな彼女にとっては退屈だっただろう。
それでも嫌な顔をせず付き合ってくれて――段々、私の海への恐怖心も薄れていった。
彼女のお陰で本格的に潜ってみることができた時も、彼女は一緒に潜ってくれた。
大人に頼りっきりだった私と違って、彼女はまるでプロのように、楽しそうに水中を動き回っていた。
私にわかるように魚を指したり。
変な貝を拾って私に見せてきたり。
楽しそうに、優雅に、自在に泳ぐ様子は――まるで、人魚姫のように見えた。
恋に落ちる、とは変な表現だ。
私は確かに恋に落ちたが、“落ちた”感覚なんてしなかったのに。
まるで、心がふっと熱い息を吐いたように。
胸の奥で生まれた泡が、ぷくぷくとのぼってくるような感覚だった。
**
「ねぇ、部活何入るの?」
昼休み。目の前の少女は弁当を食べ終わるなり、部活動紹介の冊子を開いた。
「まだ決めてなーい。スイは? 水泳部?」
すらりと長い脚を組んで椅子に座る女子生徒は、
彼女はあの時の、私の人魚姫だ。
夏休みが明け、初めての学校に行ってみれば――教室に、人魚姫がいた。
「中学の時も言ってたね。入りたい?」
彼女も私のことを覚えていて、ダイビング体験の時のように明るく話しかけてくれた。
それから一気に仲良くなり、高校生になった今では大親友と呼べるような関係になったのだ。
「ううん。私泳げないもん」
「じゃあ何で推すのよ」
人魚姫は呆れたように眉を下げてころころと笑う。
彼女の表情は海より豊かで、見ているだけで楽しくなる。
「何でもー」
「気になるなぁ」
適当に誤魔化すと、人魚姫はぷくっと頬を膨らませた。
『部活何にするー? 一緒のとこする?』
『えーじゃあ私吹奏楽』
『何で?』
と、似たような会話が聞こえてきた。
3、4限が部活動紹介だったため、どこもその話題で持ち切りなようだ。
『だって部長超イケメンだったじゃん! 彼女いるのかな』
『吹部はそんなに甘くないぞー』
あははーっと笑い合う声の興味は、恋バナに逸れてしまったようだ。
「……何か、ああいうのばっかりだね」
人魚姫も聞いていたらしく、小さく首を振って笑った。
話のネタに丁度いいのか、そういう年頃なのか、高校に入ってからこういった話題がぐんと増えた気がする。
幸い、彼女からそんな話を聞いたことはないが。
「高校生といえば青春、青春といえば恋! みたいな感じ?」
「かも。若菜はいないの? 好きな人」
机に肘をついて、人魚姫が顔を近づけてきた。
自在に泳げる彼女でも、話題には流されるらしい。
私の名前をなぞる唇は、意地悪に笑みを作っている。
「……いないよ」
喉に詰まった泡を押しのけて、当たり障りのない言葉を口にする。
憧れの人魚姫と再会を果たし、おまけに大親友になれてしまった少女がどうなるか。
「えぇー、本当かなぁ?」
答えは簡単、初恋を拗らせた。
「本当」
愛おしい人を前にして、ずっとそんな人などいないフリをしている。
とうになれた行為のはずなのに、未だに泡が喉を塞ぐ。
――出会った時から、スイが好きなの。
なんて言えてしまえば、苦労しないのだが。
人魚姫が私を選んでくれるなんて、到底思えなかった。
同性に恋情を向けられるのは、優しい彼女でも嫌かもしれない。
テレビやネットでは同性カップルの話も時折流れてくる。
けれど私も同じように上手くいくとは思えなかった。
「そういうスイはどうなの? たまに告白されてるでしょ」
「いないよ、いたら言ってる」
思えない、つもりなのに。
「かっこいい男に人とかでも、付き合いたいとか好きとか思わないんだよね」
彼女は何食わぬ顔で、そんなことを言う。
「きっとまだ、運命の人を見つけてないんだ。案外身近にいるかもしれないけどさ!」
人魚姫に恋をした私といい勝負なことを言って、からっと笑うのだ。
上手くいくなんて、思っていないのに。
そんなことを言われると、もしかしたら私と同じなのかも、なんて期待してしまうじゃないか。
「今は若菜がいるから、それでいいよ」
そんなことも、言わないでほしい。
あなたは友情のつもりで言っても、私の泡はそうじゃない。
恋情と期待が混ざり合って、ぷくぷくと音を立ててしまう。
このままずっと、彼女が運命の人に出会わなければいいのに。
いつまでも私を1番に置いて、そのまま――いつかその気持ちを、恋とすり替えてしまえばいいのに。
「……そうだね。私も、スイがいればそれでいいかも」
息を止めるように気持ちを押しとどめて、やっとの思いでそう返した。
**
この町に来たあの日から、私の心は人魚姫だけのもので。
親友、という立場を守りながら、ほんのり彼女の心が傾くのを待っていた。
ずっと私を、一番近くにいさせてほしい。できればそれが、恋であってほしい、と。
「ねぇ、若菜。聞いてほしいことがあるんだけど」
「ん、どうしたの?」
ジュースのストローから口を離して、人魚姫が私を見た。
握った小型扇風機から鳴る小さな音を追い出して、綺麗な声に耳を傾ける。
「私ね、彼氏、できたんだ」
「え……」
いつも通りのように、なんてことないかのように、人魚姫はそう言った。
頭が真っ白になって、泡が喉に詰まる。まるで魚のように、意味もなく口をぱくぱくとさせてしまった。
胸の奥を撫でる嫌悪感を、顔に出さないようにする。
「誰? いつから? 好きな人なんて、いなかったでしょ?」
やっとのことで声を出すと、問い詰めたようになってしまった。
人魚姫が異性と話している所はあまり見ないし、そこまで親しい人もいないはずだ。
彼女の周りはいつも通りで、波など立っていなかった。
「隣のクラスの榊くん。今朝告白されてオッケーしちゃった」
それでも人魚姫はいつもの調子で、楽しそうに話す。
「何で? そんなに絡んでないよね」
「たまに話してたよ。全然そんなつもりなかったけど、ピンときちゃって」
――運命の人なのかもー。
なんて笑う彼女の頬は、少し赤く染まっていた。
「いままでこんなことなかったから、ちょっとわくわくしてるんだよ」
今度でかけようって言われちゃった。
今日は彼と帰ってもいい?
とあれこれ語る人魚姫に、また何も言えなくなってしまった。
私は、どんな顔をしていたのだろうか。
人魚姫はきょとんと目を丸くして、にやりと笑った。
「もー、何その顔。びっくりしすぎだって。そんなに意外だった?」
彼女がつんと、指先で私の頬を突く。
瞬間、私の中にずっと秘めていた泡が――パンッと音を立てた。
「……若菜……?」
ガタッと音を立てて席を立った私を、人魚姫がまん丸に目を開いて見上げてくる。
赤く染まった頬の片方が、更に赤くなっていた。他でもなく、私のせいで。
「――馬鹿っ!」
捨て台詞のようにそれだけ言って、駆けだす。
喉を塞ぐ泡の消えた今、私はすぐに、どこか彼女の姿のいない所へ行かなくてはならなかった。
運命の人なんてものを信じている人魚姫は、馬鹿だ。
だけど――私の方が、何倍も馬鹿じゃないか。
人魚姫なんかに恋をして、叶うわけがないのに何年も引きずって。
もしかしたら実るんじゃないかなんて、意味のわからない希望を抱いて。
大好きな話の内容を、忘れたフリするなんて。
覚えてる。どんな話か、本当はちゃんとわかっている。
彼女は人魚姫。絶対私の人魚姫だ。
なのに、おかしい。
これでは、話が成り立たない。
人魚姫のお話なのだから――王子にだって、他に相手がいるはずじゃないか。
初恋は海模様 天井 萌花 @amaimoca
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