第30話 ママ
「もう、フネに使えそうな物はないですね」
「てへ。僕さ、いいこと考えちゃった」
彼の口元に、オレは手を添えて耳を宛がう。
「このフネの中をベッドにしない?」
振り向いて、今度はオレが彼の耳元へ囁いた。
「ああ、そうですね」
「やーん。こそばゆい」
「やーんって」
ぼそっと続ける。
「少なくとも周りは囲まれています。この囲みと毛布を組み合わせれば、暮らしやすくなりますね。また、ここをベースに遠出して、素材を拾いましょう」
二人で、もぞもぞと入る。
密流くんには申し訳ない程、オレは邪魔な体躯だった。
上を見上げる方が楽な姿勢だ。
「星が美しいのも素敵です」
「ははは。ポエムとか作ればいいよ」
ずっと、この澄んだ空気の中から、星を眺めていられるのだろうか。
幸せなことが分かった。
孤独では、得られなかったのだろう。
「あたたかいですね。さっきまでとは大分違う」
「うーん。いい湯だなあ。ぽっかぽか」
密流くんがいるから、あたたかいとか、幸福感とか、そういったプラスのものがオレに流れたのだと思った。
「密流くんのママは、どんな方ですか?」
「え? それを聞いちゃうの。キャハー」
頭を両手で抱えて、膝に己の顔を埋めている。
密流くんが息継ぎをしに顔を上げると、真っ赤だった。
タコが好きなんですね。
「ママの見た目は、僕にそっくりなんだ。産まれたときの名前は、
レゴリスの痛い地面に掌サイズの石を用いて、生綿蒼星と、密流くんが綴ってくれた。
「いいお名前ですね」
「それから、ママは、まほろば大学の
今、耳を右から左へ抜けて行きそうな情報があった。
まほろば大学――。
オレも在学している。
「偶然ですね。オレは医学部ではありませんが。密流くんを産んでくれたご両親のご出身校だとは、どきどきします」
「うりゅ、お揃いだね。僕も嬉しいよ。最初聞いたとき、はっとしたんだけど、僕の想い出は、硝子のフレームに入った硝子のスナップショットなんだよ」
いきなりプライベートなことを細かく話さないだろう。
「それから、新しい苗字にはいつ頃変わったのですか?」
「……話しても具合悪くしないでよ」
多分、密流くんのトラウマになっている所だ。
避けてもいいが、オレを使って、密流くんが成長してくれたら、それもいいと思った。
「大丈夫ですよ」
「うりゅ」
密流くんが、ちょっと熱くなったのか、毛布から手を出して、自身の両頬をパンと叩いた。
「ママがね、祖父の命で、東風の籍から抜けなければならない事件があったんだ。パパの勤めていた大学病院で、長く病床にいる患者さんの生命維持を誰かが切ったんだ。それで大騒ぎになって、本当は別の病棟の看護師が単独で行ったことなんだけれど、若くて外科部長だったパパは妬まれていたみたい」
「酷いです! 密流くんのパパは関係ないですよ」
彼は、自身の胸の前で腕を交差させた。
前へ伸ばすと、光を掬うような身振りをしてみせる。
「光ある所に要らない影が沢山できていて、パパは無作為に選ばれて、二度と医師の仕事に就けなくなったの。裁判とかしたよ。だけどね」
「ママと密流くんは、共にいたのでしょう」
裁判の間は、密流くんがママを慰めながら生活をしていたそうだ。
「その後、パパは、医療ミスの誤解が解け、家に帰れたけれどもね。仕事は、新しく肉体労働に精を出したんだ。思えば、そこから軸が狂って行った気がする」
「軸とは、運命のようなものですよね」
しまった。
辛い引き出しに触れてしまったか。
「ママが夜中の二時頃、電話で呼び出されたのは、忘れもしない、僕が小学校を卒業した春休み、三月二十七日だったよ。帰宅したママは、僕を起こすと、僕の服を箪笥から掴み取り、着の身着のままタクシーに押し込んだ。行った先は、パパが勤めていた大学病院だったよ」
「不遇としか言えないです」
密流くんの生唾を飲み込む音が見えた。
聞こえるより分かる。
「直ぐに案内されて、パパの所へ行くと――」
「もう、いいですよ。お辛いですよね」
彼は、自分の涙に気が付いていないようだった。
オレの人差し指でそっと拭った。
「それから、中学校へは、ママが行きたいみたいだったから、僕も行った。だって、ママが久し振りにお化粧をして、楽しそうに見えたから」
「本当は違ったのでしょうか」
密流くんが胸にある見えない硝子のフォトフレームを大切に抱き締める。
「ママの声がリフレインしてる」
――密流さん、あなたはパパの大和さんによく似てきたわね。
学ランはまだ大きいけれども、いつか短くなるわよ。
パパは、生き急いだのかも知れないとママは思うの。
これからは、親子二人、がんばって行きましょう。
「そのときは、健全だったんだ。中学生には厳しいこともあったけど」
入学して、クラスでの自分の様子も話してくれた。
友達は上っ面で馴染めないと、自分が以前よりもクールになっていたと。
「ママも当初は日勤を選んでくれたんだ。ママも医学部を出ていたけど、パパを追い詰めることになった病院関係へ勤務はしたくないと、安くても別の職業を選んだらしい。でも、転職を繰り返し、後から聞いたの。忙しいって」
「大変なのが分かりましたから、どうか無理しないで。ね、密流くん」
それでも、密流くんの吐露は続いた。
一番辛い告白がこれからのものになるとは、直ぐには分からなかった。
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