第23話 渚のハグ

「妾の前で、密流に手を出し給え。高塔秘」

「む、無理です」


 時の方は、下僕の巫女、焔灼から新たな赤き酒を受け取る。

 ホログラムのままベネチアングラスを揺らし、赤き酒を傾け、半分も残っているのに床に垂らした。


「妾の前で、密流に手を出し給え。年上がリードするものではないか」


 嫌な汗を掻く。

 密流くんに聞かれたくないから、暗喩で通せないか。


「オレは、結婚するまでそういうのは、如何なものかと思います。男女然り、オレ達然りですよ」


 ――ここのことではない。

 嫌な想い出ばかりが、耳元で煩くなる。

 大学の輩は、誰がラブな宿泊所へ行っただの誰がお手付きだのってやかましかった。

 その内、数名はそこの宿泊所でアルバイトをしていたらしい。

 悪戯もしたようで、それは仕事としてやってはいけないこと、誰か身籠ったらどうするのかと思っていた。

 まだ経験がないのを誇張している同級の男子が、夜のお店で大人へとデビューするなんて、噂がてら広められて、本人も満足気だ。

 そんな爛れた演劇部の中にあって、俺には白石さんが賢く綺麗だと思ったんだ。


「あの、白石さん……。話したいことがありますから、放課後残れますか」

「バカなの?」


 白石さんが、バカなんて言葉を使うことに驚いた。

 それに、意味を飲み込めなかった。


「私、赤貴あかたかと付き合ってんの」

「……す、すみませんでした!」


 恋は短かった。

 でも、破れても恋したことに違いはない。

 ――失恋は瞬間、バカで終わったけど。


 ガチャーン!

 はっとした。

 ベネチアングラスを割る音だ。


「もたつくでない!」

「ですから、未婚なのです。全く経験もありません」


 焔灼が、鞭を振るった。

 ビシッビシッ。


「時の方様の命令は絶対ヨ」

「た、痛いから、やめてください」


 時の方が、揺らめいて立ち上がり、こちらへと近寄ってくる。


「結婚とは、紙切れ一枚のことぞ」

「僕の義父は、ママを愛していないよ。ママは、ショッピングされたんだ」


 ママを想っているのが、よく分かる。

 ゴールドパスがあるから、密流くんは大丈夫だろう。

 彼は、決して時の方にショッピングされない。


「ほほう。では、ここに金塊を持ってくれば結婚になるのか」

「金塊ですか。違いますよ」


 密流くんが、肩を震わせている。


「お金で結婚したから、ママは苦労しているんだよ。僕みたいな悪い子が、離婚を決意できなくさせている。だから、いっそ出てやった。家出して、遠くでママの東風でも義父の澄青でもない名前となれば、透明な子の僕でも生きる道を拓ける気がするんだ」


 オレのことわりきれない性格なんて、吹っ飛んでいる。

 密流くんから、学ぶことが多かった。


「密流くん、『命題を立ててきたし、安直ではないよ』と初めて時計城線に乗る前に、決意を語ってくれましたね」

「うりゅ」


 甲高い笑い声が聞こえた。

 時の方だ。


「それは、それは。妾は、時空を越えて、地下鉄時計城線で崩壊して行く恋人達を浄化してきたのだ。枯れた枝どもは、黒い靄となりて、時計城線のホームで漂ったり電車に乗ったりして、愛し合っていた相手の靄を捜しておる。だが、情愛も薄れ、顔もない彼らは、隣にパートナーがいても気が付かずに去り行く悲劇ぞ。エンドレスゲームに自ら身を投じたと知らずにな」

「時の方は、ゲームのプレイヤーですか。それとも、マスターですか」


 パッシーン、ガシャ。

 ベネチアングラスが気に入らなかったのか。

 見事に割れていた。

 多分、癇癪だ。


「誰を愛そうが、勝手にさせてほしいです」

「うりゅ」


「苦しみは、鞭よりも精神にくるものがあるぞ。さあ、妾に、脳内映像を転送し給え――!」


 ザザザザ、ザーン……。

 ザザザザ、ザーン……。

 時計城にないはずの渚があっても不自然に思わなかった。


「高塔さん、涼しいよ。渚を駆けようか」

「いいですよ」


 アーハハハ!

 キャハッ。


「いつも明るくて元気ですね」

「それが取り柄だもん」


 彼が、口を尖らせて、オレの腕にそっと自身の細い指を這わせた。


「そ、それは」

「どうかしたの」

「ちゅーは、もうしませんよ」

「なんで? どうして?」

「畳みかけないでください」


 ええ?

 恋人繋ぎをしたいの?

 ませた中一だ。


「こういうのが流行っているのですか」

「んー、それよりもハグして」

「はあ……」


 ハグ。

 オレは生粋の照れ屋な日本人なので、いや、これからの世の中、色々できないと。


「ぶつぶつは要らないの。ハグだよ」


 だって、オレの力加減では潰してしまいそうなのだから。


「背中にまあるく輪を作りますよ」

「うりゅ。楽しみにゃ」

「ゆっくり、すぼめて行きますからね」

「にゃんにゃー」


 ちょっと待て。

 オレも価値観グラグラなので、我慢ができない。

 苦しくない程度に、きゅと抱き締めた。

 彼の首をオレの首で交差させる。

 くっと彼の首筋を支えると、顎がオレの耳をシュッとすって行く。

 燃えるような耳から、彼の熱い吐息が漏れて、自制心にブレーキを三回唱えた。


「あのさ、ありがとうね」

「え……」


 さっきよりは暮れた渚で、二人並んで海を眺めていた。


「僕だって、言うよ」

「こちらこそ、ありがとうございます」


 巻貝に耳を当てた。


「こんな所に、かわいい貝がありますよ」

「僕も聞いてみる。別のないかな」

「これは、どうですか」

「うりゅ」


 静かな空間で、漣が遠く近く聞こえる。

 ふんわりとした黄色いカーテンが、印象的だった。

 あのログハウスでのことを思い出される。

 姫ちゃんを連れていたあの人は、近くのサンライズホテルに泊まっているそうだ。


「姫ちゃんの寝るお部屋はあるのですか」


 オレは、どきどきして話し掛けた。

 近くに暮らす彼氏に預かって貰っているそうだ。

 彼は動物が大好きで、猫も二匹飼っているとも聞いた。

 名前は、『ホムラ』と『シャク』だったか。

 恋人同士で、可愛がっていたようだ。


「は! 『ホムラ』と『シャク』って、下僕の巫女、焔灼の前世は男の人に可愛がられた二匹の猫ですか」

「煩いネ」


 いい感じだったのに、鞭に打たれて目を覚ました。

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