第1章 地下鉄時計城線
第2話 ボン・ヴォヤージュ
大谷石で囲まれた階段は、下へ行く程闇が増してくる。
オレの方は心許なくないが、オレの袖をつまむ密流くんが仔犬のようだった。
彼の灰色がかった髪が、吹き付けられて後ろへ引かれて行く。
「うりゅ。午前零時の地下鉄に、僕と高塔さんで旅立とうよ」
「……突然、旅と言われても」
オレは、密流くんが、地下鉄時計城線を一人で旅するのを寂しく感じ出したのかと思った。
「旅は道連れ世は情けで、遠くへ行ってみたいお年頃ですか。中学生のようですが、休んで大丈夫でしょうか」
「命題を立ててきたし、安直ではないよ。僕は、
見込み違いも甚だしい。
密流くんの単純な感情ではなかったようだ。
「辛い事情を思い出させて、本当にごめんなさい……」
オレが真摯に頭を垂れると、彼は小さく笑った。
揶揄う場面ではないよね。
「僕より先に改札へ行って! ねえ、行ってよ?」
つまんでいた手を自由にした途端、彼ははっとする程の笑顔になった。
オレの背中をとんと押した勢いで、手を両手一杯広げる。
そこに薔薇のブーケを抱えているようだった。
「密流くん、危ないでしょう」
「ほらほら、一、二、三だよ。高塔さんも一、二、三で回ってご覧よ」
密流くんの無駄を一切省いた肢体が、ゆるやかに回り出す。
階下へと彼の芳しさが、風と旋律にのって行った。
自由を求める無邪気な芸術家が、
「階段で踊るのは危ないです。暗いですから、オレと一緒に一段ずつ降りましょう」
「僕に全然追い付かないね。高塔さん、追い駆けてよ」
上からまごついているオレを叱咤する。
手招きしている姿が、ようやく確認できた。
「追い付くから、密流くんは転ばないでくださいね」
「うりゅ」
うりゅの意味が分からないなどと考えていると、密流くんとすっかり引き離されてしまった。
このまま深く沈んで行くと、明かりなどない真っ暗な世界が待っているのだろう。
改札とホームも区別がつかない程だと思っていた。
「満月が――?」
改札を煌煌と照らす満月があった。
「これが改札ですか? どうして月が、満月があるのですか」
後ろから、あたたかい腕が腰の所で回された。
細く華奢で、嫁にしてと言われたらことわれない魅惑がある。
既視感が、走馬灯のようにオレを駄目にした。
「密流くんでしょう」
「うりゅ」
「そんな仔犬のような瞳を潤ませても駄目ですよ。オレを待たずに先に行ってしまいましたね。転んだらどうするのですか」
「僕は、さっききたんだよ。追い越したのは、高塔さんだよ」
彼は負け犬の真似をして、後退りして行く。
くうーんとの鳴き声は、オレの中のオレが、密流くんを仔犬だと思ったから、それを察知したのか。
気を取り直そう。
「普通の地下鉄ですね。これが地下鉄時計城線の駅ですか」
敢えて満月には触れないでおこう。
改札は、有人だった。
自動改札機ではない。
入鋏の音が、カチカチとリズミカルに聞こえた。
一箇所のフネに改札係員がいる。
「どこか行きたい所があるのですか。オレは切符を買わないとなりません。お弁当代の千円からコーヒー代を引いた残りしかないので、あまり遠いとピンチになりますが」
「僕は、ゴールドパスを持っているから要らない。顔って言ったのも半分本当だよ」
金色のカードが、首から紐でかけられていた。
折り紙みたいな物ではなく、精巧にできた電子部品が配列されている。
疑問に思うことも多々あったが、彼といると払拭されてしまった。
「オレは、どうしましょうか。切符の販売機もないから、困りましたね」
「僕と手を繋いでいて」
改札で鋏を鳴らしていた係員に近付く。
密流くんとオレの手は、お互いの力によって強く結ばれていた。
緊張しているのか、じっとりと汗ばんでいる。
滑って絆が遠くなってしまわないのだろうか。
これでいいのか。
大丈夫なのか。
黙って通ればいい。
密流くんを信じよう。
「僕と同乗者ね」
堅そうなゴールドパスに入鋏された。
ギシーン……!
耳を劈く音がすると思ったら、満月が一層強く光った。
シャシャア――!
宗教の天井画にある神々しさは、まさにこれだろう。
眩しいから、空いている方の腕で顔を覆った。
「ボン・ヴォヤージュ」
ええ?
この係員ではなく、ゴールドパスが話さなかったか。
「高塔さん、いつまで顔を隠しているの?」
「眩しいですよね」
「手はいつまで繋いでいるの?」
「ゴールドパスがないと、オレは追い出されるのでしょう」
繋いだ手をぶんぶんと振られてしまった。
鼻歌も聞こえてくる。
「もう、密流くん。くすっと笑ったか」
安全だと自分に言い聞かせて、薄目を開けた。
るんるんの彼に対して、臆病なオレが情けない。
「さて、ホームも手前しか明るくないんだ。この辺で、時計城線を待とうよ」
面を上げて、周囲を観察した。
取り敢えず、密流くんに、どんぐりぐりぐりの刑を与えておく。
痛がってはいたが、笑っているなんておかしな美少年だ。
「高塔さん、このホームをご覧よ。黒い靄が三箇所あるだろう」
「う。魂魄が、可視化しているのでしょうか。怖い話は得意ではない方なんですよ」
気が付かなかったが、もっと奥へ目をやると揺らめく黒い塊が認められる。
「あれは、旅にしくじった者の残骸だってさ。永遠に時計城線から出られずに、いつかくる列車を待っている巡礼者みたい」
「恐ろしいことです。ボン・ヴォヤージュではありませんでしたね」
ボン・ヴォヤージュ、いい旅となればいいのだが。
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