ことわりきれない時計城

いすみ 静江

序章

第1話 翆雨の出逢い

 木々の葉を翡翠のように輝かせているのは、誰あろう空からの泪だ。

 オレの頬にも一つ二つと刺さってくる。

 都会の一角で惚けてしまった。


「腰と膝は打撲ですね」


 小さな水たまりで滑って横転すると、前輪が鼻先で空回りをした。

 オレの気持ちと同化している。


「真っ黒なお兄さん、どうしたの?」


 青い傘を差し向けてくれたのは、中学生位の少年だ。

 彼は、俄かに微笑む。

 オレの胸にさくっと刺さったのは、鬼才パガニーニではないか。


「僕は、密流みつるだよ。自転車で転んだのなら同情するけど」


 オレと彼を遮る車輪がからりと回ると、少年が極めて美しい面差しだと分かる。

 灰色がかった髪を肩に当たる程伸ばし、透明で恥じ入るような肌は、ピエール=オーギュスト・ルノワールが少女に抱かせた頬のようだ。

 瞳は、明るい青い色味だが、仔犬のようでいて一矢も逃さぬ鋭さがある。

 口元は、秘密を共有した仲間にしか開かないと語っていた。

 六月の涼しい午後なのに、ボーダータンクトップとグレーのボートネックを重ね着して、オレンジのハーフパンツ姿だった。

 それに比べてみろよ。

 自分は、まるで烏のように、黒髪の左に分け目があり、前髪が眉にかかる程のショートカットで、黒縁眼鏡の奥を覗かないと分からない程の地味な黒瞳だろう。

 柄も文字もない黒のTシャツに、ブラックジーンズと地味だ。

 オレが、凡庸な風貌だからだろうか。

 少年は、薔薇のように思える。


「オレは、高塔たかとうひそかと申します。高い塔の上に秘密の秘の字です」

「うりゅ。高塔さんね。僕は、密流。秘密が流れてしまうネーミングだよ」

「苗字も込みですか」

「ははは」


 惚けられた。


「密流くん、傘をありがとうございます。三時だけど、学校はどうしたのでしょうか」


 一瞥され、綺麗な青い傘を高く放り投げられた。


「プレゼント・フォー・ユーだ。僕のことは秘密さ」

「待ってください! 密流くん」


 自転車を払い除けて追い駆けようとしたが、青い八角形が広がって視野を塞がれた。

 葉を絡めて転がる傘を拾うと、前を向くが姿はない。


「密流くん」


 直観的に彼なら分かってくれると思った。


「僕は、地下鉄に乗りたいのさ」


 雨粒に反響して、トーンの高い声が薄らいだ。


「少し話したかったのです。雨に任せて、オレの夢は流れて行きました」


 ただ、立ち尽くすしかない。

 変わらずにきらきらと葉は物語っている。


「同じ忘れられた者同士、分かってくれると思うのは、我儘でしょうか」


 後ろから、あたたかい腕が腰の所で回された。

 細く華奢で、嫁にしてと言われたらことわれない魅惑がある。

 ここは、オレが通うまほろば大学の付近だ。

 仲間が引き留めにきたと、一瞬脳裏を過る。

 しかし、飛び出して全てを失ってきた所なのに、調子がいいだろう。


「うりゅ。僕だよ」


 はう。

 美少年か。


「はあー。揶揄ったらいけませんよ」


 頭をぐりぐりしたら、密流少年はしっとりと濡れていて、慌てて白と黒とが飛ぶ千鳥格子のハンカチを差し出した。


「ふーん」


 元の形には戻らない程、ごしごし拭いてくれている。

 頬まで拭って、美少年が微妙に勿体ない。


「ぶっ。お饅頭みたいになっています」

「僕は、もち肌で国士無双だよ」

「いい歳して、坊ちゃんは麻雀をされるのですか」


 げ。

 睨み上げないで欲しい。

 オレが百七十六センチだから、密流くんは百六十丁度か。

 密流くんの肩を抱き、書店前に入ってもらった。


「コーヒーは飲めますか」

「一流のならね」


 こまっしゃくれて話し難いと思いながら、店先の自販機でブルーマウンテンを二つ落とした。


「熱いですから、気を付けてください」

「うりゅ」


 捨てられた仔犬かって突っ込みを入れたい美少年攻撃があったが、オレも十九歳だから落ち着けと呪文をかける。

 僅かなあたたかさは手をほろっとさせると、喉の奥に消えて行った。

 隣では、薄着の仔犬が縮こまっている。


「雨が酷くなってきました。軒下では済まなそうですが」

「あっちに地下鉄の入口があるよ」


 オレは、自転車通学だったから気が付かなかったのか。


時計城とけいじょうせんとありますね。今まで知りませんでした」


 葉が絡んだ青い傘を密流くんがさっと持つ。


「相合傘したら、五千円ちょうだい」

「密流くんが濡れますから、一人でゆっくりどうぞ」


 水たまりを蹴って、くるりと翻りながら斜め向こうの入口へと彼は跳ねて行った。


「楽しそうでいいですね」

「僕だって、苦労しているさ」


 突然、傘をぶるっと回して、水滴を飛ばされる。


「うわ!」


 オレは一瞬真っ白になったが、軽率なのは自分だと分かった。


「ごめん……」

「へへーん。分かればよろしいって」


 雫の妖精よろしく、霧の奥へと消えて行く。


「執事かも知れない。オレ」


 素朴な質感の大谷おおやいしを重ねたフランンク・ロイド・ライトを思わせる入口に、二人で佇む。


「密流くんは、お財布持っていますか」

「パスならあるよ。世界中顔パスさ」


 彼が、先に降りて行った。

 下から強い風が吹き、唸り声でも聞こえそうだ。

 大谷石に穿つ小さな穴が、形相を自在に変えてくる。


「どう? モンマルトルにでも僕と行く?」

「それなら、飛行機ですよ」


 口に手を添えて、密流くんは小さく嗤った。


地下鉄ちかてつ時計城線を知らないの?」

「ああ」

「一日に、二便しかないんだ。零時と十二時」

「極端ですね。今からだと零時を待つことになりますが、お腹が空いたりしませんか」


 彼は首を横へ振り、オレの瞳に棲む本当へ話し掛けた。


「僕と旅しようよ」


          【序章 了】 

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