二十二

 気が付けば、梅の実も大きくなって来、いよいよ、出航の時が迫っていた。


 [宙海丸、明日朝初出航!薬師寺重工製最新大型商船に期待集まる]


 隆吉の船出を、大手新聞の見出しに載るよう仕向けたのは、陸軍の幹部である中津川だった。

 中津川は、宙海丸があくまでも民間の商船であると公に知らせる為、新聞社へ圧力をかけのだ。その中津川も宙海丸の関係者として、出航前日の祝賀会に参加していた。


 「いよいよ明日だな、気分はどうだ」中津川がグラスを片手に尋ねると「ええ、最高です、これから仕事が始まれば、全てを忘れる事ができるんでね」と隆吉が答えると、中津川は少し笑いながら「ふん、そうか、でもな、作戦を忘れてもらったら困るぞ、これは国家存亡を懸けた戦いなんだからな」


 「はい、弁えていますよ、一所懸命に勤めを果たすだけです」


 「ふん、ならいい、海に落ちて死ぬんじゃないぞ、じゃあな、健闘を祈る」


 中津川と別れ暫くするとこの場に渋谷がいないのが少し気になったので、元吉にその事を尋ねると、渋谷から今日明日は仕事で来れないと連絡があったことを知った。隆吉は「そうか」と残念に思いながら会場をぶらぶらしていると、突然ドンっと背後から誰かがぶつかってきた。


 何事かと思い振り向くと、見覚えのある女が鋭く尖った短刀を背中に押し付けていた。


 「お咲…」と微かに声が漏れた。思いもよらぬ出来事に冷や汗すら出ず、隆吉は黙って、お咲のまなこを見つめることしかできなかった。


 「あんた騙されてるよ、この船には恐ろしい物が積んであるんだ、それを運ぶための船なんだ、何かあれば仁仏の隆吉のせいにして一件落着さ、そんなことに気が付かないなんてあんたも腕が落ちたね、見損なったよ」


 お咲の言うことに一瞬、隆吉は我を忘れた。


 「本当か…」と弱々しく囁く隆吉を見、お咲がなにか話そうとした瞬間、お咲のか細い体が宙に浮いた。

 お咲は背後から大男に両腕ごとガシッと抱き締めるように掴まれると、自由を奪われてしまったのだ。


 「なんだいあんた達は、離せっ!この、バカ、このこんちくしょうめ」


 大男に捕まれ足をジタバタさせ、喚いているお咲の後ろから地鳴りの様な笑い声が聞こえてきた。


 「グハハ、元気がいいお嬢さんじゃ、粗相のないよう連れて行けよ」


 浅黒い肌を艶光りさせ、どしっどしっと現れたのは義三郎だった。


 「何をやっとるんだ、君の目標は世界一の貿易商じゃなかったかな、こんな老ぼれに助けられてるようじゃ、到底無理じゃろうな、グハハ」


 隆吉はそう言われて当然であった、しかし、話の内容が聞かれていない事がせめてもの救いだった。恐らく喜八も何処かに紛れているだろうし、どうにかなる、その想いがあった。


 「助かりました、ちょいとお遊びが過ぎまして、こんな事に…」


 「お遊びか…まあ無事でなによりだ、しかしな、一言云わせてもらえば、宙海丸は君の船だが、わしの船でもある、そういうことだ」


 「はい…」それしか言えなかった。


 順調だった船出が一転、隆吉の前途は不透明さを帯びてきた。真実が見えぬ中、貿易商で世界一になるという意志の光、それを包み隠すように、暗雲が立ち込め始めた。

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