十六
––––これから、交渉が始まる。
薬師寺義三郎は百戦錬磨の
相模のさえない油売りだった薬師寺家を、たった一代で日本で指折りの大財閥まで成長させた。その手腕は、一廉の実業家という言葉などでは表す事ができまい。
薬師寺義三郎が抱く大志がなんであれ、その純粋な情熱は、燃え盛る炎の様に全身を包み、煮えたぎる熱い人情は、皮膚という皮膚から滲み出し、老練な人相には血生臭い人間味が溢れ出ている。
「お父様、こちら倉本さんです」
「お初にお目に掛かります、私は倉本と申します」
「うむ、君が倉本君か、娘から色々と聞いてるよ」嗄れた声で答えると、義三郎は膝を摩りながら叩き、隆吉の眼を見た。
「色々ですか、悪い評判でなければいいのですが」と適当に返したが、義三郎の嗄れた声音から、底知れない肚の内を見せられ、隆吉は生まれて初めて、背筋に凍った雫がすーっとつたうような気分を味わった。
緊張を察し、田所が隆吉を見て微笑んだ。
「心配しなくて大丈夫ですよ、倉本さんの事は、とても親切で心から信頼できる方、そう伝えていますら、ね、お父様」
「ああ、君が娘と交際してる男を助けたことも知ってるぞ、まあ…娘の恋愛にいちいち口を出す気はない、しかしな、実を言うと晴美には随分前から良い相手を用意しているんだ、グハハ」
「お父様、ジョセフさんはとても誠実な方なのよ、私はジョセフさんと一緒になりたいの」
「ふん、馬鹿な事言うもんじゃない、お前の相手はわしが決める、黙って従うんだ、もう二度と言わせるな、わかったな」
恫喝ともいえる物言いに萎縮し、ただ悔しそうに田所は俯いた。
そんな事は、お構い無しという風で、義三郎は話しを続けた。
「ところで、倉本君、君は船が欲しいそうだが何故だい、元より、君が商船を手に入れる程の金を持っているとは思えんし、色々と解せんのだよ」
「はい、確かに個人で商船を買おうなんて馬鹿げている、しかし、私は世界一の貿易商になりたい、そういう目標があります」
––––體が前のめりなるほど、気持ちは熱くなっていた。
隆吉は真剣な表情で義三郎を見つめると、姿勢を正し、「お金に関しては、倉本家の全財産を使い果たしてでも用意する、覚悟はできている」と付け加え説明した。
「ふむ、世界一ね…それが君の野望なわけか、しかしな、私が調べさせたところによると、倉本宗太郎などという資産家はおらん、正確には、つい最近までこの世に存在しなかった、それがここひと月の間で、突然戸籍上に現れてるらしいんだ、なあ…倉本君、解せんと思わんか」
その言葉が、一瞬場の天を突いたとみえ、皆な沈黙した。転瞬、沈黙を切り裂いたのは、眼光鋭く光らせた隆吉だった。
「そうですか…まったくもってこの国のお偉方には頭が下がります、仰る通り倉本宗太郎なんて資産家は存在しません、
––––口調と態度は豹変していた。
しかし、無礼とは思われはしなかった。それは、隆吉の澄みきった意気地が、義三郎の好奇心を刺激したお陰だろう。
似た物同士の共振は、互いの猜疑心を完全に吹き飛ばした。
「グハハ、そうかそうか盗っ人か、いいじゃないか、面白い、今度は正攻法で成り上がるときたか、君の言うとおり、わしは素性なんて気にせん、が、商船は高いぞ、どうするつもりだ」
倉本が元盗賊だと知った田所が驚愕している隣で、義三郎は平然とそう答えた。寧ろ、その事実に胸が躍っているようでもあった。
「さすがは義三郎親分だ、懐が広くていなさる、ご心配の金については問題ありゃしません、たんまりあるんでさ、盗賊も何代か続けば名家と変わりありません、
「ほう…天下の大盗賊、落葉松の次平の一味ときたか、そうすると幕末に
「へい、その通りで、しかし与野屋の資産を頂戴したまでは本当ですが、実際そんなにはありゃしません、金銀合わせて八億円ってところでしょう、噂は大袈裟になるもんですからね」
「グハハ、そうか随分と尾鰭がついたものだな、だとしてもだ、八億円もあれば軍艦が作れる額だ、商船ならどうにでもなる…と言いたいところだが、生憎、近頃はどこの国も情勢が悪くてな、色々と調達が難しい状況だ、これから作るとなると、いつ竣工出来るか検討もつかん、それでもよければ受けてやるぞ」
「いえ、それは困りますんで、兎に角早く船が欲しいんでさ、義三郎親分の力でどうにかならないものですかね」
政治とは無縁の隆吉とて、1920年恐慌や昭和恐慌の足音もあって、義三郎の言うことに偽がないのは承知している。
しかし、それでは渋谷達との約束はおろか、自分の野望も果たせない、隆吉は逸る気持ちを抑えきれず、義三郎に喰らいついた。
「なにを急ぐ、時が来れば手に入る物を無理強いすると、碌なことはないぞ」
義三郎のもっともな反応に隆吉は迷った、急がねばならぬ理由を明かすべきか、嘘でこの場をやり切るか。
しかし、相手は百戦錬磨の義三郎である、張りぼての嘘が通じる筈はない。束の間、隆吉の脳内で無数の可能性が駆け巡ったが、いい案は出なかった。
密約の事を話すしかあるまい、隆吉が諦めかけた、その刹那であった、天の知らせも見逃すような間隙を突き、カンカンカンと離れの呼び鈴が鳴ったのである。
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