十三

 早朝の甲板に、男臭い工員達がどっさりと集まって、朝礼が始まるのをいつものように待っていた。

 この日、造船場の工場長の寺井は竣工予定日が前倒しになる事を朝礼で告げると、年内一杯は忙しくなるので心するよう工員を奮起した。文句は出なかった、一旦造船が白紙になりかけ、数週間も仕事が無かった工員達からすれば、これで家族と暖かい正月が迎えられるのだから、文句など出る筈もなかったのだ。

 そんな折、今日も元吉は施主である隆吉に代わり、代理人として、偽名「手嶋俊兼」という名を使い、薬師寺重工築地造船場へ出向していた。


 「手嶋さん、この部屋は一体何に使うんですか?」寺井が元吉に尋ねると「ああ、これについては倉本の強い希望でして、なんでもお日様がよく見える部屋が欲しいみたいで、設計上で問題でもありますかね」と、まったく悪気なく元吉が答えると「そうですか、大丈夫ではありますが、あまり変に設計して、できた後に変更なんて言わないでくださいね」と、不機嫌そうに寺井が言った。


 寺井はその部屋が、実際何に使われようと構わなかったけれど、金持ちの道楽に思えてあまりいい気はしなかった。元吉についても、その軽い態度が好きになれず、つい否定的な態度で接してしまうのは、寺井の霊性に何か引っ掛かるものがあったからだ。


 然りとて、「夜はすぐに来る」今日の寺井の無意識ではこの言葉が反芻されていた。それは、新橋の飲み屋で出会った女のお陰で、今までの寂しい週末が一変し、最近は心昂る週末になっていた。そして、今日はその女との約束の日だったのだ。


 いつしか、造船場がむさ苦しい臭いで飽和すると、いつもの様に日の入りが始まり作業は終わりを迎えた。


 「ご苦労様、来週も忙しいから体調には気をつけろよ」


 部下を労い造船場を後にすると、寺井は新橋の飲み屋へ向かった。中々に盛るお茶屋などには見向きもせず、人流を抜け、モダンな酒場のドアを開けると、洋装の女がひとり、カウンターで葡萄酒を揺らしていた。


 「あ、寺井さん、来たのね、とても嬉しいわ、ねえ何を呑むかしら」


 「ああ、それは良かった、まずは麦酒をもらおうか」


 寺井は素っ気なく答えた。女が麦酒を注文するのを見つめつつ、この場でも工場長として自分が君臨していると仮定し、沼底から沸き出る泡(あぶく)の様な情欲を遺漏(いろう)なく抑え込んでいた。


 「ところで、寺井さん、船の造船が再開したんですってね」


 「ああ、これで少し落ち着いてくれたらいいんだけどね、なかなか上手いように進まないよ、おう来た来た、さあ、とりあえず乾杯しましょう」


 麦酒が届くと二人は乾杯をし、寺井は麦酒をグイッと勢いよく呑み込んだ。


 「それで、美咲さんの方はどうだい、いい仕事は見つかったの」


 「うーん、ダメね、いくら東京でも女の仕事はそう直ぐには見つからないわ、寺井さんの所で働かせてくれたらいいのにな」


 「それは難しいな、造船は男の仕事だよ、どうしても力が必要だからね、それよりもむさ苦しくて汗臭くて、女じゃ耐えられたもんじゃない」


 「もう冗談よ、いくらお給金がよくても造船場で働きたいとは思わないわ、寺井さんは優しいのね、私の事なんかでも真剣に考えてくれるんだから」


 そう言いながら、撫で撫でしく迫り来る美咲に寺井の鼻の下は伸び切っている。まさかこの女が女盗賊、丈菊のお咲であるとは寺井は知る由もないのであった。


 「美咲さん、いけないよ、私には妻も子供も居るんだ…」


 「うぅん、知っているわ、でも、こうしてたいの」


 「ああふ…そうかぃ…酒が切れてるね、もう一杯頂こうか」


 お咲の放つ淫靡な微香が、寺井の神経を通じて脳機能をガラクタにしていく。寺井はお咲に誘われるままに酒を呑み、待望の蕎麦屋の二階に行く頃には泥酔し意識は朦朧となっていた。

––––伝え聞く所によれば、当時の東京は蕎麦屋の二階や空き部屋が情事の場であったという。


 「うう…美咲さ…ん、いけない…よ」


 「はいはい、何がいけないよ…だい、妻も子供も忘れてしっかり蕎麦屋までご一緒してるじゃないか、見かけによらず芯の弱い男だねぇ」


 酩酊し寝言を言う寺井を小馬鹿にしながら、お咲は寺井の鞄から造船場の鍵を拝借すると、蕎麦屋の主人に扮した喜八へ渡して鍵を複製させた。


 「よし出来たね、それじゃあ引き上げるよ」


 「咲姉、こいつこのままかい、流石に可哀想だぜ、布団くらい被せてやるからちょいと待ってくれい」


 「あんたも人がいいねぇ、早く終わらすんだよ」


 次の日、寺井が目を覚ますと、昨夜あったはずの蕎麦屋はもぬけの殻となっていた。此処に居るのは自分だけ、呑み過ぎたとはいえこんな作り話の様な出来事に戸惑いながら、寺井は掛けられていた布団をギュッと抱きしめ、泣き出しそうな顔を布団にグッとうずめたのだった。


 「へっ、へっ…へっくしゅん!!」


 「なんだい喜八、風邪でも引いたのかい」


 「うぅ、くわばらくわばら、いやね、わけわからねえが突然体中に寒気が走ってよ、気味が悪いのなんのって」


 「またどっかで変なもん貰って来たんだろうに、あたしにたけるのだけは勘弁くれよ」


 「馬鹿言うない、このおおおお」


 二人の根城がある神田小川町から、神田明神へ参拝する道中、真の姉弟の様に戯れあう二人は、神社でなにを祈るのだろうか。



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