十一

 江戸から時代の止まった古い長屋の前で、元吉の子供たちが無邪気に遊んでいる。暑気の消えた秋風に吹かれ、子供らの笑い声を聞き、およいが慣れた手つきで里芋を綺麗にしていると、そこへ仕事を終えた元吉が、ニコニコしながら帰って来た。


 「おう、帰ったぜ、ボンたちは元気かぁ」


 およいは子供たちは元気すぎて困っている、少しは子供の面倒を見てほしいといつものように言ってくる。ばつが悪いとまではいかないが、元吉は顎をさすって苦笑いで急場を凌ぐと、今日はこちらの出番とばかりにすぐさま話題を変えた。それもそのはずで、家族にとって久しぶりにめでたい話しがあったのだ。それは、現在の港区である増上寺近辺へ転居が決まり、今より数段上の暮らしが出来る、この事だった。


 「来週の金曜日だ、急な話で手間かけて悪いがなんとか頼むよ、ボンたちも新しい家はこっちより広いから喜ぶぜ」


 「まったく…」そんなおよいの心の声が聞こえてきそうではあるが、この古びた長屋から抜け出せると思うと、およいの心が穏やかに変化して、永遠に消えそうになかった靄が自然に晴れてゆくようであった。しかし、なぜ急に家移りする事なったのか、それについては深くは追及しなかった。妻であるおよいが、夫の過去を知らぬ訳はないのである。言わず語らずとも分かり合える、夫婦の絆が二人にはあるのであった。

 元吉達の新しい住まいは、増上寺からほど近い愛宕下町の平屋で、借家ではあるが、家族四人でも窮屈には感じないし、小さいけれど庭もあって、台所もある。およいと子供達は大変に満足していた。

 余談ではあるが、この辺りは明治から昭和二十二年頃までは、芝区と呼ばれ、徳川家菩提寺である増上寺に隣接し、国定公園の芝公園もあり、現在よりも賑やかだったという。近辺から縄文時代の遺跡も見つかっているし、太古の昔から人を呼ぶ地だったのかも知れない。

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