山裾の片田舎にある軍の地下施設に伝令が入ったのは、田畑の霧が立ち込める朝方だった。中津川を長とする「第八零壱師団」には敵国の暗号を解読する部隊があった。暗号の中にはわざと敵国にわかるように、嘘の情報を発信するものもあり、一見しただけで真実の情報と判断するのは難しい。

 この暗号解読において、中津川は秀でた才能を持っていた、才能があるとはいえ、外国語の拙い中津川にとって、解読の仕事は性分に合わない。皮肉めいた中津川らしく、物心ついたころから、人の本音と建前を分析する性癖があったのと、若い時分のスパイ任務のなかで、自らがいくつもの正誤の暗号を使って軍部に情報を送っていたこともあって、暗号が嘘か誠かを判断することについて、中津川の右に出るものはいなかった。


 「やっと動いたか、まったく上の連中ときたら慎重すぎて困ったもんだ、毎度毎度こちらを待たせた挙げ句に最後には任せるで終わりなんだからな」

 

 中津川が執務室でいつもの様にひとりで愚痴をこぼしていると、カッ、カン、カンカッと間抜けな拍子でドアを叩く音が聞こえた。

 どうやら、調子はずれのノックは特別な合図の様で、それを聞いた中津川は緩みきった軍服の襟元を締め直し、「入れ」そう言って頑丈な鉄製ドアの鍵を開けた。


 「師団長閣下、先日云われておりました例の暗号の件、先ほど解読が完了いたしました」


 「うむ、そうか、それでどうだった」


 「はい、こちらに」と差し出された文書にざっと目を通すと、中津川は「ご苦労だった」と、ひと言かけて部下を下がらせた。

 ドアの向こうの気配が消え、周囲に人は居なく、完全に一人になったの確認すると、静音な執務室の木製の椅子に腰かけて、ふーっと息を吐いた。

 中津川が妙に気になっていた暗号が一つあった、それを優先して解読させていたのだが、思ったとおりであまりいい便りではなかった。

 「どうしたものか…」この暗号に書いてあることが本当であれば、後数年後に大きな戦争が始まることは誰の目にも明らかだった。

 しかし、中津川はこの暗号を知る全ての者に対し、しばらくの間この件については秘匿するよう命令した。というのも、これはいつものことで上層部は腰が重いうえに、暗号の信憑性だ、根拠はなんだ、証拠はあるのか、などといって作戦が実行されるまでに時間がかかるのが目に見えていたし、この事が多くの者に知れ渡れば、軍部も政府も混乱するのは明らかであった。

 それであればこちらで隠密に動くほかなかった。

 [第八零壱師団]には緊急時に限り単独の隠密作戦を実行できる特権を与えられていた。スパイ活動、暗号解読、暗殺等々、秘密裏に行う工作だからこその特権であった。

 隠密とはいえ、そこは組織の一部であるからして、大将にはひと言「濃霧ハアレド光アリ夜ヲ待テ」と短い和文電信暗号を送って、隠密行動の開始を知らせた。

 暫くして、参謀本部から「任せる」と伝令が入った。流石に気を使ったのか、中津川は机の引き出しに隠しておいた飛び切りのバーボン・ウヰスキーを一口啜ると、ゆっくり腰を上げ、「星でもみるか…」そう静かに呟いた。

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