九
まだ寒さの残る行春の風が細長い積雲を推していく、薄着の人夫たちにはそんな物は関係なく、威勢よく横浜の街を行き交っている。
たまに通る自動車は、ハット姿の旦那衆を乗せて砂煙を上げている。
その中の一台のハイヤーが大薬師銀行の前に停まると、隆吉が後部座席から現れた。
そして、あつらえたスーツを着こなし、いかにも名家の長子らしい所作を漂わせながら、銀行の扉を開けた。
ここ、大薬師銀行は日本でも屈指の大財閥である薬師寺家の創業者、薬師寺義三郎が作った銀行で、ジョセフの女つまり義三郎の隠し子が務めている銀行であった。女は薬師寺という名ではなく
田所が義三郎の娘というのは、銀行でも頭取だけが知っているだけで、他の者は一切知らなかった。
親の庇護のもとで職についていたわりには、怠けることはなく、仕事ぶりはよく信頼もあり、得意先の大口の仕事を任せられるほどであった。
田所が大薬師銀行に勤めていたことで、隆吉はそれほど苦労せずに田所と繋がることが出来た。
隆吉はお勤めで稼いだ大金の一部をこの銀行に預けると、金額の大きさから担当が付く事になった。
すると、運が良いことに初めから田所が担当になったのである。
「倉本さん、今は軍需産業が好況ですが、私はお勧めはしません、戦争はずっとは続きませんから、安定した投資先とは云えない、そう考えています」
「ええ、私も同感です、どうせお金を使うんだ、誰かの役に立つように使いたい、私がお金を使うとすると、すぐ恵まれない人とか、貧しい人にとか、そういう人達に使ってあげたいと思ってしまうんだよ、使い道は田所さんに任せるよ、ハハハッ」
そう言って隆吉が軽口を言って笑っていると、田所の愛嬌のある顔が般若の様に一変した。
「倉本さん、簡単に言いますが、お金を生むことは簡単そうで簡単ではないのです、それができるのは限られた人達だけです、その力は悪用されてはいけません、気軽に人任せにするなどと口にしてはいけません、しかし、大金を使う場合はそれを人のために使うことは善い行いです、力ある者はそういった善意が必ず必要であると父から教わりました、ですので倉本さんの考えに賛成はできます、けれどその運用方法について安易に人任せにすることだけは賛成はできません、すみません…生意気なことを言ってしまって」
「いや、いいんです。私も同感ですよ、田所さんのそういった信念を気に入って信用しているんです、しかも、誠実な仕事をする銀行が少ない中、さすがは天下の薬師寺義三郎親分ですな、田所さんのような若い行員にまでしっかり心が通ってるんだから、しかし、田所さんの場合は、お父様の影響が強いらしい、薬師寺義三郎とは関係ないみたいですがね」
「ありがとうございます、そうですね、そう言っていただけると、父も喜ぶと思います」
義三郎の隠し子と知っていて、少し意地悪な言葉をかけたが、田所は何もなかったようにさらっとした態度だった。
この女、一筋縄では行かぬ、そんな思いが隆吉の頭の中を過ぎった。
隆吉が一癖ある女に気に入られるのは昔からではあるが、隆吉もまたそんな女が気になってしまう。
いくつもの色恋を肥やしにした隆吉、その境地は単に男女の仲ではなく、こういった仕事上の公な関係にも味わい深い情愛を見つけ、楽しめるようになっていた。
一度の情事ですべてが終わることもある、お勤めの成功には強靭な自制が必要なことを、隆吉は身をもって知っている、[お勤めは
「それでは田所さん、今日はここまでにしようじゃないか、まだ投資先が決まった訳ではないが、ほかの銀行に預けてある私のお金は大薬師銀行に預けることにするよ、それだけは決めたよ」
「そ、それはほんとうですか、倉本さんの資産が一気になくなると、その銀行は相当の痛手なはずです、まして大薬師銀行ひとつに預けるとなれば他の銀行とも軋轢が生まれます、そうなれば私共の銀行も嫌がらせを受けかねません、もう少し慎重にお考えになってくださいませんか」
「はは、しかし素晴らしいな田所さんの考えは、その若さでそこまで思慮深いとは恐れ入るよ、そうですな、追加の預金については少し考えてみます、実は銀行に預けていない資産もありますので…」
隆吉が蓄えていた資産は凡そ八億圓、今の価値で言えばざっと三千億円といったところであろう、盗賊稼業一代で築いた資産にしては多すぎる額である。
それをなぜ隆吉が蓄えていたか、それには複雑な事情があるのだが、簡単に言ってしまえば、隆吉の師匠であり親分にあたる天下の大盗賊[
次平は文政の生まれで、江戸から明治へと時代が変わるにつれ盗賊家業が衰退するなか、最期まで盗賊として生きぬいた、
次平は子宝に恵まれなかったためか、ひょんなきっかけで隆吉と出会うと自分の孫のように可愛がった。
その次平の莫大な資産を受け継いだのが隆吉である。
「では、田所さん、次もまたよろしくお願いします」そう言って隆吉は銀行を後にすると、呼んでいたハイヤーで横浜駅へ向かった。
汽車に乗り東京に着くと、しばらく空けていた三上屋へ向かった。
到着するやいなや、この頃の身辺の変化で少し疲れたのか、何の気なしに畳の上で横になると、断想的に思い出される小さな頃の記憶に前頭葉はやられたらしく、ついうとうとと眠ってしまった。
どれくらい経っただろう、仲居がバタっと襖を開けると目が覚めた、ぼーっとしたまま仲居にありがとうを伝え、電気灯の付いた部屋から窓を覗くと外は暗くなっていた。
「一杯やるか」そう思い薄手の外套を羽織ると、隆吉は夜の街へと出掛けていった。
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