ここ数日、隆吉は京橋からほど近い旅館[三上屋]に滞在していた。なんでも、三上屋は古くは幕府や朝廷関係者、今では政府の要人やら地方の有力者がこぞって泊まる宿らしく、客の殆どは礼儀正しく身なりは立派だし、旅館のもてなしも最上級ときており、なんとも豪奢で気品のある宿であった。隆吉は静岡からきた名家の若旦那と偽り、この三上屋に滞在していた。


 「おはようございます、今日もいい天気ですねぇ、昨日は随分とお飲みになっていたようですが、お身体は大丈夫でございますかい」


「おはようございます、ええ、お陰様で随分と体調はいいですよ、これからまた知り合いのところへ行くところです」


 「まあ、ほんとにお元気なことで、やっぱり若いっていいわねぇ」


 仲居は愛想よく話かけると、いつものように軽く会釈してから立ち去ると、廊下の端にある納戸に向かった。その納戸は旅館の下働きの者たちが主従関係から離れ、少しばかりの息抜きをする憩いの空間であり、彼等のストレスを発散する大切な場所でもあった。


 「ねえ、あんた知っているかい?いま鶴花の間に泊まっているお客さんがいるだろう、あの人ね銀座の悟大商会の渋谷さんの知り合いみたいだよ」


 「それほんとかい、あの若さで渋谷さんと付き合いがあるなんて、そうとうの大金持ちか、名家の出身しかないね、まあ倉本さんならどちらでも考えられるわね」


「そうだろ、いずれにしたって倉本さんならどっちでもいいわ、ああ…私がもう少し若かったら少しはだけてみせて猫なで声で甘えちゃうんだけどねぇ」


 「なあに弱気なこと言ってんだい、今のあんただってまだまだいけた口だよ、少し胸が垂れたくらいであきらめんじゃないよ、世の中にはババアが好きな若い男だっているもんだよ」


 「いってくれるわな、あははははっ」


 納戸から笑い声がこだましていた頃、隆吉は番頭へ数日は戻らないことを伝えると、数日の尾行を終えた元吉と会うため、鎌倉へ向かったのである。


 佐助稲荷神社から、そう遠くはない場所にある地魚料理[海土竜うみもぐら]は地元の者に愛される名店で、優しく和みのある風情は老若男女問わず誰の心にも染みた。このような店に心根の良い者たちが集うのは当然だし、隆吉もこの店を気に入っていた。付け加えて店主の平蔵とは盗賊時代からの顔馴染みで、隆吉が連絡がすれば大抵の場合は二階の部屋を貸し切りにしてくれる。この日も、隆吉は二階を貸し切ると、漬物をあてにちびちびと冷を呑みながら、元吉の報告を待っていた。


 「お頭すみません、少し遅くなっちまって」


 「いいいい、気にするな、で、どうだった」


 「かたじけねぇ、じゃあ早速ですが、あの混血の男なんですがね、名を宮本ジョセフと言いまして、普段は軍の通訳をしているんですが、どうやら少しばかり女好きが過ぎるようでございまして、山下町の自分の家にはほとんど帰らねえで、中村町の女の家に転がり込んでまして、なかば夫婦のような生活を送っているんでございますよ、しかも、その女ってのが...」と、言いかける元吉の話を隆吉が珍しく遮り、「おうおう、そいつはいいじゃねえか、まったく羨ましいぜ、それ聞いて安心したぜ、それなら急がずとも大丈夫そうだ、なあ、今はうまいもんを楽しんでおいたほうがいいみてえだぜ」隆吉がそう言うと、トントントンと階段を上がる音が聞こえ、平蔵が襖越しに「よろしいですか」と了解を得てから襖を開けると、今日上がったばかりの魚で刺身やら煮魚を作って持ってきた。それを、二人は何も疑わずに食べる。

 新鮮な魚や地の野菜を存分に味わい、最後に鯛のだし汁で作った茶漬けで〆た。この極上のひと時を過ごした後、二人は煙草の煙を燻らせた。


 しばらくして、腹も落ち着き、店の客も居なくなったころ、二階の部屋はゆらゆらと蝋燭の薄明りに揺れていた。


 「つまり、ジョセフの女が薬師寺義三郎の一番下の子供で、しかも隠し子ってわけか、おまけに子供の中で女はその娘一人ときたら、隠し子といえども可愛がられるのは当然か」


 「へい、そうなんです、これも何かの因果なのか薬師寺義三郎と云えば、泣く子も黙る天下の大財閥薬師寺家の大親分ですぜ、うまく行けば大型軍艦だって夢じゃねぇですぜお頭」


 「気が早えぜ元吉、こういう縁はな急がねえ方がいい、天に任せとけ、まずはジョセフだ、これから外国とやり取りするのに、言葉が通じねえってのはちょいとまずいからな」


 「でもお頭、その役目だったら、なにもジョセフでなくたって勤まるんじゃねえかと思うんですがね」


 「ああ、始めはそう考えてはいたんだが、どんな了見かわからねえがな俺はジョセフにえらく惚れちまったみてえだぜ」


 「またですかい、お頭のその思いつきで物事決められちまうんだから、いつも大変なことになっちまうんですぜ」


 「なあに、あんまり気にしすぎるもんじゃねえ、どうにかこうにか流れ流れててうまくいくもんだぜ」


 「まったく、お頭ときたら…はぁ」


 ああでもないこうでもないと、二人が今後のお勤めについて、計画していると離れたところから、カタンとなにかが倒れる反響音が聴こえてきた。店のそばの神社で、リスが狐の置き物をいくつか倒した時の音だろう。その音につられるように窓を覗くと、大きな半月がぼうっと輝いていた。

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