一夜明け、大丸屋の主人の悲鳴が港町に鳴り響いていたころ、隆吉は静岡駅にいた。

 朝方の静かなホームにはパラパラと人が点在しており、各々がパーソナルな空間を保ち、澄んだ空気に意識が溶け込んでいるように見える。隆吉もその中に溶け込むと、「始まるね…」と心で呟くと汽車に乗り込んだ。

 暫くの間、車窓から景色を眺めまったりと旅を楽しんでいるうちに、いくつかの駅を超えていた。東京駅に近づくにつれて乗客が多くなってきたので、隆吉は人混みから抜け出すように後方の車両に移動すると、隅っこで静かにしていたくて、車両の一番奥の席を伺うのだが、先客が居るのが分かると仕方なく前の席に座ることにした。

 この日、隆吉の服装は横浜仕立てのスーツに、黒の革靴で立派に決まっていた。そのせいか行商の多い車内では目立ってしまう。目立たず騒がず、それで今はいいのであるが、今日はどうやら服装選びを失敗したようで、少し落ち着かない様子であった。

 しかしながら、なぜだか決まってそういう時におもしろい出会いが生まれるのが、この世の不思議だ。

 

 「失礼、そこのお方、少しお尋ねしてもいいですかな」そう言って、車両の一番奥に座っていた乗客が隆吉への好奇心を我慢できずに話しかけてきた。隆吉は少し面倒に感じたが、暇つぶしには丁度いいと思い、「ええ」と短く返事をした。すると男は軽く目礼をしてありがとうを言うと話し始めた。


 「わたしは東京銀座で商いをする者なんですが、あなたに見覚えがあってね。確か…あなたは横浜のデニズ商会の方じゃなかったかな?」


 「ええ、そうです、デニズ商会の倉本です」


 「おお、やはりそうか、あれは震災の前だから四、五年くらい前かな、デニズさんの帰国の時に、港で少しお話したのを覚えていてね。そうそう倉本さん、倉本さんだ。私は伍大商会の渋谷善友という者で銀座で商売をしているのですが覚えていらっしゃるかな…その後デニズさんはどうです、お元気なんですかな」


 「ああ、あの時のお方でしたか、それがデニズさんとはもう連絡を取っておりません、取れていないというほうが正しいのかも知れませんが。なんの間違いかデニズさん宛ての手紙が軍事郵便と間違えられてましてね。いろいろと伝手をあたってみるんですが、これがどうにもこうにもなりません」


 「うむ、そうですか、残念というかなんというか。仕方のないことではありますが、私たちのような商売は外国あっての商売なんですがね。ここ最近は貿易も厳しくなる一方で自由にやり取りできないもんだから、慣れない国内の仕事で銭稼ぐのに苦労してますよ。しかしあの時はよかったなあ、もう十年以上も前になりますかね、日本に来たばかりのデニズさんとはよく遊んだもんですよ」


 「ははは、そうですね昔の横浜はよかった、日本人も外国人も偏見なく連れだってよく遊んだものです。人々も活気に満ちて景気も良くて、仕事も遊びも事足らぬ事はなかったですからね」


 「そうだよ、その通りだ、こんな窮屈な世の中じゃほんとの楽しみなんて感じられない。国のお偉方連中は偽りの喜びで民衆を満足させようとするが、国民だってみんなそんなに馬鹿じゃない、心の底じゃ満足なんてしていないんだ。結局その鬱積がこの国を包んで、澱んだ空気を醸成させているんですよ。そうだ…ねえ倉本さん、あなたも東京まで行くんだろう、どうだい一緒にグイっとやりながら道中楽しもうじゃないか」


 「ええ、そうしましょう」


 たまたまの偶然に昔出会った人と再開す、これは誰にでも起こりえる事である。しかし、実のところ隆吉はこの出会いが偶然起こったように見せかけていた。

 というのも、隆吉はこの渋谷善友という男の事を全く知らない、なぜなら初対面の男だったからだ。


 倉本という名前も咄嗟に思い付いたもので、渋谷との話は全て作り話しだし、デニズなんて知りもしない。   

 隆吉の好奇心とあてどのない我が身の幽遠さが、「この男に付いて行け」そう言っているようで、自然とこうなったのである。


 「どうです、これはなかなか手に入らない代物ですよ。」


 「ほう、これは珍しい、スコッチウヰスキーですか、しかも上等な物ですね」


 「へへ、さすがだね倉本さん、わたしはね、これの価値がわかる人と飲みたいと思っていたんですよ、田舎の金持ちはみんな価値なんてわかりはしないんだ、どこぞの舶来の三級品でも、あいつら高い金だして買っちまうんだから、こっちは楽ですがね、商売人としての張り合いがありませんよ」


 軽快な侮辱に渋谷の商売人としての覚悟が伺える、その覚悟を隆吉は気に入った。


 「確かにそうですね、しかし都会だろうと田舎だろうと本物がわかる者は少ない、よっぽど物乞いの方が価値をわかっていると私は思います。これはデニズさんから聞いた話ですが、日本の物乞いは人間の内面が見えている。そう聞いたことがあります」


 「はは、物乞いが神通力ですか。それはまた一理ありそうですな、さすがデニズさんだ。ささ、どうぞどうぞ」


 そう言って、渋谷がウヰスキーを注ぐ瞬間だった。隆吉は見逃さなかった、開いた背広の腰元には茶色い皮製のホルスターが装着され、銃が漆黒に煌めいているのが見えた。隆吉の脳裏にその刹那に様々な憶測が飛び交うものの、死線を何度も潜り抜けた男にその程度のことはよくあることで、逆にますます渋谷善友という男に興味を抱いた。


 「おお、これはなんとも忝いです、渋谷さんに酒を注いでもらえる日が来るなんて思ってみなかった」


 「いやいや、倉本さん、私なんてデニズさんに比べたら丁稚みたいなもんですよ、とにかく倉本さん、わたしはあなたが気に入った、さあ飲もう」


 黄金色した舶来酒を酌み交わし、渋谷は横浜の思い出と日本の行く末に思いを馳せ、隆吉はそれに合わせて話を作る、東京が徐々に近づいて来ると、隆吉のふわっとした思惑がゆっくりと形を整えて、車窓からグワッと入り込んできたようで、隆吉の目つきは昨日とはまるで別人のものになっていた。

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