夜の銀座のガス灯が、ぼうっとゆらゆら照らすのは、おおよそワケありの人間と決まっている。


 その例にもれず、[中津川 正直]という中年男が人通りの少ない裏路地の街灯に照らされている。

 中津川は懐中時計を右手に持ち、左手には木製のステッキを持ってトントンと地面を叩き、誰かを待っているのか落ち着かない様子であっちを見たり、こっちを見たりしている。その動きは、ちょび髭の映画俳優のようでなんとも滑稽であった。

 そんな中津川が待っていたのは、隆吉が汽車で出会った銀座の商人、渋谷善友であった。


 「遅い、遅い、遅い!まったく渋谷のやついつまで待たせるんだ!一体私を誰だと思っているんだ、昔の私とは立場が違うんだぞ。こんなところで一人で突っ立っているのだって憚れるのに、昔馴染みをいいことに、いつ迄たっても雑な扱いをしやがってからに」


 中津川はキーキーと悪態をつきながら、ステッキをパンパンとてのひらに打ちつけていると、背後から聞きなじみのある声が聞こえてきた。


 「おー、中塚川すまんな待たせて、ちょっと急用があってな」


 「なにが、急用じゃ、どうせ吞みすぎて寝坊でもしたんだろう、まったく」


「馬鹿言うな、俺だっていっぱしの商人なんだ、大事な仕事が急に入ることもあるんだよ、しかし、お前は昔からせっかちだったが、最近さらに磨きがかかったんじゃないか」


 「呆れるな…せっかちときたか、いつも、お前が待ち合わせに遅れるは、すっぽかすはで、迷惑を被っているの私なんだがね」中津川が呆れた様子でそう言うと「ああ、次は遅れないようにするさ」渋谷はふてくされて答えた。


「まあいい…この国がどれほど危ない状況かわかってないから、そんなこと言ってられるんだ、私はな善友も知っての通り…」


 「ああ、わかったわかったみな迄言うな、帝国陸軍の中将で秘密特殊部隊の師団長なんだろ。そう何度も聞かされてりゃ嫌でも忘れはしないよ、おまえはその秘密部隊に所属しているおかげで、顔がバレずに一般人に溶け込んで生活ができるんだ。イイじゃないか国の重要人物がこうして堂々と、銀座で友人と会話できるんだ。まったく羨ましいねぇ、秘密特殊部隊ってのは」


 「お前な…それを知っててこの扱いか、ところで、こんなところに呼び出すんだ、なにかよからぬ企みでもあるんだろう、はやく要件を言えよ私だってひまじゃないんだぞ」


 中津川をトップとする陸軍秘密特殊部隊[第八零壱師団]とは言ってみれば国際スパイのような部隊で、各国に散らばった工作員をまとめ、工作員が集めた情報を管理する諜報機関である。渋谷にしても、銀座に事務所を構えて、世界とやりあう会社の社長という身分。お互いに責任がある立場の人間であり、共に働き盛りの男そのものである。二人は昔から仕事ばかりでなく、遊びにも真剣になる性分であったため、若いころは随分と悪戯を働いては、警察に捕まり数日牢屋に放り込まれる。そんな日々を過ごした時期もあった。金石の交わりの仲だからこそ、中津川は今日の話には何かある…そう感じたのだ。


 「中津川、お前が察している通りなんだ、しかしな今回すこーしばかり毛色が違う、いやそんな例えじゃ反って陳腐になってしまうな…何といえばいいのか…」


 「なんだよ、歯切れが悪いな、なんだかお前らしくないね。盗人に金でも捕られでもしたんじゃないか」 


 それを聞いて、渋谷はふふっとほほ笑むと、フランス製のシルクハットを脱帽した。


 「盗人か…さすがだねぇ勘がいい、でも金を盗まれたわけじゃない、覚えていれば話は早いんだが、十年程前に突如大阪に現れた盗賊の話があっただろ、天下の船問屋[岸本屋清兵衛]の蔵から額にして百萬圓の大判小判が一夜にして消えたって話だよ」


 「そのことか…忘れるわけがあるまいに。私がまだ諜報員として活動していた時の出来事だからな、軍は岸本屋から多額の援助を受け取っていた縁もあって、その事件のときは例外的に軍部が犯人捜しに協力していたわけだが、虱潰しに手がかりを探しても、足跡もなけりゃ埃ひとつも見当たらない、完全に完ぺきな仕事ぶりで、警察も軍もまさにお手上げの未解決事件となったわけだ、わしにとっては忌まわしい思い出さ」


 「ふふ、お前にも思い出したくない思い出があるんだな」


 「おいおい、私だって人の子だぞ、で、その事件と今回の話になんの繋がりがあるって言うんだ」


 「はは、ほんとにせっかちだねえ…それがな、見つけたのさ、お尋ね者をね…」


 国の要人と国内随一の貿易商人が銀座の路地で話をしている数時間前、不忍池のほとりには、隆吉と元吉の姿があった。

 こちらの二人は、なにやら渋い顔で顎に手をやるやら、深く腕組みをするやらで落ち着かず、思案にあぐねている様子だった。


 「お頭、それであっしに船大工になれって言うんですか」


 「いあや、そういうわけじゃあないんだ、どうにか海外行きの大型船に乗り込めるようにしたいだけなんだが、それなら元吉の大工の腕が役に立つんじゃねえかと素人なりに考えたまでよ、しかし、元吉の言う通りでただの大工が明日から船大工になるなんて無理な話よな、どうしたものか…」


 こんな塩梅で、ああでもないこうでもないと、いいアイデアがないか探していると、隆吉の口内に昨日食べた今見鳥の焼き鳥の味がじわーっと蘇ってきた。こうなると、食べ物に関しては我慢などできない性分の隆吉は、「腹が減ってはなんとやらだ」と元吉を強引に連れだって今見鳥へ赴くのであった。

 今見鳥は数年程前にできた店で、三十路頃の店主とその妻、そして店主の母親であろうの女、その三人で切り盛りしていた。店内は十五人程は余裕で座れるほどの広さである。

 いつもなら賑わう時間帯であるが、今日は運良く空いていて、すんなりとお目当ての焼き鳥定食にありつけた。


 「これだ、この匂い…たまらねえな、昨晩ご馳走になってから、この焼き鳥のことばかりが頭に出てきてな、実は大事な船のことについてはからっきしよ、まあそういうときもあらぁな、何するにしたって、まずは腹ごしらえが先だ、なあ元吉よ」


 「へい、その通りで、しかし、お頭はここの鳥飯が相当気に入っちまったようですね」


 二人が和やかにしていると、スーツ姿の男がひとり、店に入ってきた。その男は日本人にしては背は高く手足も長い、おまけに赤茶色の毛髪で肌は白く、当時の日本では違和感があった。それを見やった隆吉が言うには、その男は日本と西洋の混血の者らしいのであった。


 「スミマセン、ここの焼き鳥がオイシイと聞きました。それをイタダケマスカ」


 混血男の日本語はとても上手だが、節々からネイティブでないのが分かる。元吉はそれを聞いても特段気に止める所はなく、食事を続けていた。しかし、隆吉は違った、日本ではまだ珍しい腕時計を着け、身なりもよく、自由に日本語を操れる混血の外国人が普通の外国人であるはずがない。


 「おい、元吉、あの男のこと尾けてくれ、理由はあとで話す。でな、すまねえがおれは先にでるぜ、別に行くところができちまった、明日また不忍池で会うことにしようや」


 隆吉はそう言って、昼飯代と心づけを天板にさっとおくと、足早に今見鳥を後にした。


 「お頭は、突然どうしたんだろうか」と思う反面、元吉は天板に置かれた心づけの多さに驚きと喜びとが合わさって何とも言えず気分は上々であった。しかも、昨日もおよいが心づけをもらったばかり、それも合わせれば当分は楽して暮らせるほどだから嫌でも気分は浮ついた。

 しかし、裏稼業に呑気な時間なんて許されない、元吉は痛いほど熟知していた。盗賊を辞めてから尾行なんて何年もしていないし、多少の不安はあった、しかしそこは「隠れ見の元吉」と呼ばれた男である。混血の男が店から出るのを確認すると、近からず遠からず、空気のような立ち振る舞いで気を隠し、その混血の男の後を尾けるのであった。

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