五
電気の通わない貧乏長屋の薄暗い夕やみ、近所の質素な夕餉の匂いがあちこちから入りこみ、すきっ腹をちくちく刺激する。
隆吉は部屋の天井をちらっと見やると、その匂いをかき消すように煙草に火をつけた。
「いいか、次の仕事ってのは商いだ、商いっていってもそこらの道端で野菜や干物を売るような小さいことじゃない、貿易だ、海を越えて外国とやり取りして大金を手に入れんのよ、だれも手に入れたことのない程の大金だ、全世界の人間がよってたかっても無くならねえほどたくさんの銭だぜ、なんだってできる、この世の理だって変えられるはずさ、言ってみりゃ世界一の大親分だ」
「お、お頭は狂っちまったんですか、商いなんて一番下等な仕事だって、自分でそう言ってたじゃないですかい、しかも外国と何かするっていっても文字も言葉もわからねえ、おまけに今は景気もあまり良くはねえ、こんな大変な時にどうにもならねえですぜ、そんな夢みたいな話し」
「だからさ、だから今が絶好の機会なんだ、俺はなここへ来る前にでっけえ伝手見つけてきたんだ、それ使って成り上がるんだ、できるぜ今なら、この不安定な情勢に乗じて韋駄天の如くてっぺんまで駆け上がるまでよ」
「いやあ…いつもながらお頭の思い付きには毎度毎度頭が下がりますぜ…純粋というかなんというか…ところで、そんな大事な用事なんだったら、なんであっしのところに来たんですかい、あっしはもうお頭と別れてから、かれこれ四年…今はこうやって大工の仕事でやっと一人前になったばかりで、堅気になってこれからって時なんでえ、今更商人なんてできませんよ、それにお咲や喜八はどうしたんです」
「うむ…それは重々承知よ、だからこそな…お前に無理を承知で頼みに来たまでよ、なんというかなあ、お咲と喜八とは袂を分かってな…」
「えっ!なぜですかい!あいつらとはあっし以上の付き合いじゃねえですか、まして、お咲姐さんとはいずれ…」
「まあそう言うな、人間生きてりゃこういうこともある、それが人の世の常と思へば、大したことねえってもんさ」
「世の常ですか…あっしには難しすぎてわかりませんが、それじゃあ、お咲姐さんと喜八の野郎は今どうしているんですか」
「あいつらはな、まだ盗賊よ」
いつの間にかあたりは暗くなり、ずいぶんと経っていた。
さすがに子供二人を連れて夜の時間は潰せないと、およいが弁当を買って帰ってきた。
「お頭、すまねえこんなもんで申し訳ねえが食べていってください、こいつは天王寺の方にある料理屋で[
そう言って元吉はお膳に弁当を置き、この家では一番の二流酒を床に置いた湯呑茶わんに注ぎいれると、心ばかりの振る舞いの出来上がりだった。
およいは茶を沸かし、元吉は小さい娘をあやしている。
ここでは当たり前の風景を垣間見て、隆吉は微笑んでいた。
それになんといっても、甘辛い焼き鳥にご飯と漬物が入っている、この弁当。白米の上にたれの染みた海苔を敷きつめてあるし、炭火で焼いた鶏肉も香ばしくて、合わせて食べると何とも言えずおいしい。
これはまた近いうちに絶対に食べてやると思い、弁当の包み紙を背広の内ポケットにしまい込んだ。
隆吉は弁当をぺろっと食べ終えると、およいの入れた茶を頂いた。
子供らはもう気持ちのよい眠りの中にいる。
和やかな家に長居は無用と、明日の昼頃に不忍池のあたりで落ち合う約束をして、隆吉は元吉の家を後にした。
春先の冷えこむ夜の帰り道、酒を呑んだせいなのか、隆吉の心はカッと熱くほてっていた。
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