間章①

10:辺境伯領への旅路

 馬車の旅。心躍るファンタジーな響き。

 車窓をゆっくりと流れる景色。車輪が大地を蹴る音。荷台を曳く馬の鼻息。時間に追われる現代人はもう体験することのできない、穏やかな時の流れがそこには……。


「こ、腰が……。」

「でぇじょぶかあ、兄ちゃん。」


 そこには、ない。

 天幕で覆われた荷台は太陽の熱と淀んだ空気が満たして、乗っている人間を呼吸の一つひとつから殺しにかかる。鉄板が打ち付けられている木軸の車輪は僅かな段差を越えるだけで大きく弾み、その振動の一つひとつが荷台に座る人間の腰を破壊しにかかる。

 そして何よりも、馬は生き物である。彼らは人間以上に食料と休息を必要とする。三時間か四時間か進んだら馬車を止めて、休憩がてら物理的に道草を食べさせなければならない。貴重な財産であり、強力な動力源でもある馬の体調を整えるために、頻繁に歩みを止めてでも休ませるのだ。

 まあ、彼らが道草をもりもり食べている間に人間はこうして木陰に座り込み、革袋の水筒にたっぷり入っている薄められた酒を飲んで水分補給ができるわけだが。


「正直に言うと、馬車の旅が人間側もこんなに大変なものだとは思いませんでした。」

「カカカッ。ま、初めての旅なんでぇ、そなもんだなあ。」


 御者もハヤトの隣に座って、まばらに残っている歯でチーズの塊を齧っている。

 風がそよぎ、木陰を作ってくれている木立の枝葉を揺らす。

 北にはここまで通ってきた土の道が、地平線の先まで細々と続く。そしてこれから行く南には、森の中へと消えていく道が見えている。


「これからの予定ってどうでしたっけ。」


 ハヤトが訊ねると御者はチーズの塊を薄汚れた麻袋に仕舞い、どこからか巻物を取り出す。縦に開くと、墨で書かれた大味な地図が現れた。


「今はぁ、でえてぇこの辺だな。んで、今日じうにロウネっつう都市に入る。」


 御者は森の向こうにあるはずの都市を、不格好に曲がっている指で示す。


「森ん中んあっがら、一息に通っちまおう。」

「森の中では休憩しないんですね。」


 ハヤトがそう訊ねて皮袋の水筒を仰ぐと、御者は巻物を丁寧に巻きながら頷いた。


「だ。野盗がでっからな。のんきに止まってっと、すーぐブチ殺されっちまうで。」

「や、野盗ですか……。」


 王都を出て、川沿いの道を行き、氾濫原に拓かれた青々とした麦畑の間を通ってここまでやってきたが、そういう危険な気配というのはまったく感じられなかった。

 ただ、王の軍隊が巡回している王都周辺から離れれば離れるほど、そういった危険が増していくのは間違いない。荷台に積み込まれた荷物の中には、すぐに使えそうな鉄の剣や、一人で着られるとは思えない立派な板金鎧、羽飾りがついた全面兜フルフェイスもある。

 名目上、ハヤトはハアースという都市の「治安維持」の任務を与えられている。さすがに身一つで送り出すわけにはいかないという配慮があったのだろう。その配慮が、ハヤトは無性にありがたく感じた。

 すぐに使える武器さえあれば、もし道半ばで盗賊に襲われたとしても自力で抵抗して、自分だけは命からがら生き残れるかもしれないのだから。

 ただ、もし本当に襲われた時、自分はどれだけのことができるだろうとも、ハヤトはまだ遠くにある森を眺めながら思う。

 戦えるだろうか、自分が。志しか持っていない自分が。


「……やれるだけ、やればいいんだ。」


 期待してくれる人がいる。遠くから無事を祈ってくれる人がいる。確かに目の前にいた、ここにはいない人たちが。

 そういう人たちに向かって胸を張って「ただいま」を言うためにも、精一杯やらなければ。できないことをできるようになり、できることを、もっとできるようにならなくては。

 まだ高いところにある太陽が、東の地平線に沈みきってしまう前に。


「ん。しょんべんか?」


 ハヤトが革張りの鞘に納められた短い剣を片手に立ち上がったのを見て、御者が声をかける。


「いや、ちょっと鍛錬を。」

「カカカッ。真面目だなあ、兄ちゃんは。」


 ハヤトは丈長の衣を脱ぎ、太陽の下に上半身を晒す。細かった体はうっすらとだが、しかし確かに肉で盛り上がりつつあった。

 深い切り込みが特徴の三つ又の葉の飾りがあしらわれた、片刃の剣。

 この剣に相応しい男に、なるために。




 王家直轄領の南部に位置するアコイ郡の都市、ロウネ。そこは通称「森の都市」と呼ばれている。

 ロウネ周辺は王家直轄領の大半を占める「オナー地方」で最大の森林地帯。大量の木材がこのロウネを中心に生産されて、王都に運ばれているという。また森に住む獣を狩り、解体して得た毛皮や肉も資源として市場で流通している。

 王都からは馬車で七日分以上の距離があるが、日がすっかり沈んだ後でも酒場や路上では大勢の人間が出入りしている。

 ただそれが、住民とは限らない。


「テメエ今こっち見てただろ?!おい!シカトしてんじゃねえぞコラァ!」

「姉ちゃんイーイ体してんじゃねえか。ちっとこっち来てくれよう。」

「ダハハハハッ!!見ろよ兄ちゃん、オレの鎧!サイコーにイかしてるだろぅ?!」

「そ、そうっすね……ははは……。」


 久々に人里で休めることになったので、ハヤトは観光がてら、人が手を入れたまともな夕食を食べるべく宿屋近くの酒場に足を運んでいた。

 しかしこの酒場、やけに剣やら斧やら弓やらを持った男たちが出入りしていて、酒を浴びるように飲んでいる。それだけならいいがアルコールが入ったことで元々大きかった態度はさらに大きくなり、ついでに声も大きくなり、結果として隣の席の客ともまともに会話ができないほどの騒ぎになっている。

 ただ、この騒ぎに慣れているらしい店員は客からの注文を瞬時に、かつ正確に聞き分けて料理人へ伝達し、料理人は無駄な動きの全くを排した動きで料理を仕上げていく。


「はい!腸詰め肉とふかし芋のスープ!あとパン!それからエール!合わせて銅貨十九枚ね!」

「お代です。あと、心付けチップも。」

「まいどありぃ!」


 顔全体にそばかすがある店員の女は、ハヤトから受け取った二十二枚の銅貨をエプロンのポケットに突っ込むと、黄ばんだ歯を見せてニッカリと笑う。

 店員には客一人ひとりをまともに相手している暇なんてない。次から次へと入る注文を聞き取りに行き、それを厨房の料理人に伝えた帰りに、完成した料理をテーブルに運ぶ。

 日本では飲食店でアルバイトをしていたハヤトだが、いくら客の入りが増える時間であってもここまでの忙しさは経験したことがなかった。

 重労働だと思っていたあのバイトも、これと比べれば可愛いものだ。キツイだの大変だの文句言ってごめんなさい、とアルバイトの学生に優しかった副店長に謝りながら、ハヤトは腸詰め肉を齧った。


「うっ?!ガホッガホッ!!」


 しかし一口齧った瞬間、鼻と喉を突き刺す強烈な塩味のせいで咳き込んでしまう。塩味を和らげようと慌ててエールを口に含むと、おそろしくぬるく、もはやただ苦いだけの液体だった。

 仕方なしにパンをちぎると、くずがぼろぼろと落ちてテーブルの隙間から床にこぼれていく。食べると粒状になっていて固く、ぼそぼそとしている。

 城での食事が、恋しい。

 特に語るべくも無し……そう思っていたあの城のあの料理が、この世界ではトップクラスに上等な食事だったのかもしれない。

 こういう時、せめて一緒に食事を楽しむ仲間がいれば違うのかもしれない。

 ハアースでは絶対に一人で食事はすまいとハヤトは心に誓いながら、ぼそぼそのパンをスープに浸した。




 酒場の喧騒を離れ、宿屋に向かう途中のこと。


「わっ。」

「ひゃう……っ。」


 転んでしまわないように暗がりに気を取られたばかりに、建物から出てきた人とぶつかってしまう。相手は地面に尻もちをついてしまった。


「ごめんなさい。大丈夫ですか?」


 ハヤトが手を差し出すと、ぶつかった相手はきょとんとした顔でハヤトと自分に差し出されている右手を交互に眺める。


「あ、う、うんっ。だいじょーぶだよ。」


 相手がハヤトの手を取って、明るいところに現れる。そこでハヤトはようやく、ぶつかってしまった相手が小さな女の子……いや、幼女とも言うべき子どもだったと気が付いた。

 ただ幼女はその小さな手で短い槍をしっかりと握っており、小さな体は革の装甲がついた身軽そうな鎧で守られている。


「怪我とかしてない?」

「へーきだよ。でも暗いから、おにーさんも気をつけてね。」


 槍を持った幼女は可愛らしく手を振って去っていく。ハヤトはやけに頼もしく感じるその背中を少しの間だけ見送ってから、宿屋への道に戻った。

 槍を持った幼女が自分を見ていることには、気がつかずに。



 宿屋で借りられたのは、五人分のベッドが置かれた大部屋だけ。そもそもそれしかない宿だった。

 宿や酒場で代金として払った銅貨は、馬車に積まれた荷物に入っていた金貨を一枚換金してもらったもので、それだけで既に銀貨と小銀貨、銅貨が麻袋いっぱいに手に入った。

 カネ。そう、この世界のカネだ。荷物に用意されていた金貨は三十枚。それが尽きる前に収入を得られるようにならなければいけない。

 だがハヤトの頭の中には、中世ヨーロッパ風の世界観における「仕事」というものがはっきりと思いつかないでいた。


 すぐに考えつく職業で言うと、例えばお針子。まあ、当然却下である。

 では剪定師の夫妻のように、庭園の庭師というのはどうか。だが齧った程度の知識しかないし、庭園を持っているような人に雇ってもらえるほどの信用も人脈もない。

 そういえば、とハヤトはクリオが言っていた「傭兵ギルド」という言葉を思い出した。ハアースに到着したら、とりあえずそこに駆け込んでみよう。

 仕事を探す。日本ならスマートフォンに求職アプリを入れて、住んでいる場所を入力すれば、あとは上から下へスクロールするだけのことなのに。中世ヨーロッパ風の世界ではこんなにも悩まなければならない。


 銀色の硬貨は窓から覗く月の明かりを反射して、手を照らす。

 酒場での食事が、一人一食銅貨二十枚。宿代は五人部屋に一泊で銅貨五枚、五人組なら銅貨二十一枚。

 しかし鼻と喉を焼くような塩味がする腸詰め肉が入ったスープ、ぼそぼそしたパン、ぬるいエールが銅貨二十枚だ。そして木のフレームにクッションとして藁が少し被さっているだけのベッドが、安くても一人頭四枚だ。

 物の価値とは、何なのだろうか。

 それを買うための「人の価値」とは、いったいいくらなのだろうか。

 ぼんやりと曇ってきた頭でそのようなことを考えながら、ハヤトは藁のベッドに体重と意識を預けた。



 次の日の朝。荷物が盗難に遭っていないことを確認してからロウネを出た。これから先は都市を中継する予定はなく、ハアースまで直行すると御者は言う。といってもあと十日はかかるらしいが。

 ごとり、ごとりと車輪が鳴るのを聞きながら、ハヤトは木々の隙間から差す温かな陽の光に照らされていた。

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