09:まだ見ぬ世界へ

 コンコン、と外から扉が叩かれる音が耳に響く。


「目覚めのお食事をお持ちしました。」


 しかし扉の向こうから返ってきたのは凛とした、しかしあどけなさが残る愛らしい声。


「お客様はお休みになっています。」

「……失礼しました。」


 木底の革靴が石の床を引き返していく足音が遠くへ行き、やがて聞こえなくなった頃。ベッドの上でもぞもぞと蠢く人影があった。

 きめ細かい白肌を晒す少女は、床に脱ぎ捨てられていた召使い用のドレスを拾い上げると、埃や土を静かに払い落し、布摺れの音すら出さないようにゆっくりと着こんでいく。それからベッドの反対側に回り込むと、同じように脱ぎ捨てられている丈長の衣を広い、皺を伸ばすと、近くに置かれている椅子の背もたれにそっと掛けた。

 靴を履き、髪を一つまとめに束ねて身なりを整えた大きな瞳の召使いは、ベッドの上で眠るハヤトの顔を、じっと覗き込んでいる。

 規則正しい呼吸。力の抜けた肩。安らいだ表情。少しだけ丸まった手。


「……かわいい。」


 大きな瞳の召使いは愛らしい顔で愛らしく微笑みながら、自分のものとは違う真っ黒の髪を優しく撫でた。


「こんなに可愛らしく眠る人が、王国を救うなんて、できる訳がないじゃないですか。」


 髪を撫でるたびにハヤトの瞼に少しだけ力が入り、時折口元と指が動く。

 そんな様子すら少女は愛おしそうに、目を細めて眺めている。


「こんなようじゃ、せいぜい女一人を守るのが精一杯でしょうね。」


 そうしてしばらく黒い髪を撫でていた召使いの少女は、一度だけ深く呼吸すると、ハヤトの耳元に口を寄せた。


「……無理だけは、しないでね。」


 赤らんだ唇を頬にそっと触れさせて、大きな瞳の召使いは居直る。

 とても晴れやかな、大事を達したかのような表情で。


「さあて、お仕事お仕事!」


 大きな瞳の召使いは底抜けに明るい声と共に部屋を去っていった。



 ベッドの中で蠢く者がいた。


「さむ……。」


 外は暗い。木板の戸でふさがっている細窓から、冷たい空気がひゅうひゅうと吹き込んできて、何も着ていない体に堪える。

 ベッドの中は温かくて良い。誰であろうとも受け入れてくれて、体を芯から温めてくれる。

 ああ、とハヤトはベッドの右側を少しめくって覗き込む。

 そこには誰もおらず、しかしハヤトよりもずっと小柄な人の形に窪んでいる。

 窪みに右手を置くと手形で上書きされていき、微かに残っていた熱は自身の体温でかき消える。


「……ありがとう。」


 小柄な窪みの頭を二度、三度と撫でながら、そこにいた少女のために呟いた。

 ハヤトはじんじんとした痛みが残る腰をゆっくりと解しながら、ベッドの外に這い出る。椅子の背もたれに掛けられていた丈長の衣を手に取って着込むと、外気で冷えた粗い生地が素肌に触れて、体がぶるりと震えた。

 冷たい石張りの床に敷かれたカーペットをひたり、ひたりと歩いて木板の戸を開くと、石壁に囲まれた家々の煙突が吐く灰色の息が、遠い稜線の向こう側から差す光に白んだ空へ立ち上る。


「朝か……。」


 昨日の朝から、今日の朝まで。丸一日近く寝てしまったようだった。もっとも思い返してみれば、クリオの訓練よりも過酷な運動をして精を吐き出しきってしまったように思えるから、まあ、妥当かもしれない。

 ふと、手のひらに目を落とす。

 この世界に来る前は、何と言うこともない平凡な手だった。ただこの世界では、あまりにも無力な手だった。

 ほんの六日の間で、皮が剥けては大きな瞳の召使いに手当されてを繰り返したことで、皮膚は少しずつ厚く、節のように硬くなりつつある。

 自身の適応力を称えるべきか、それとも呪うべきか。

 無力だ。あまりにも、無力な手だ。

 しかしもう、無力な自分を嘆くのは止めなければいけない。

 たった一人の愛らしい少女があの小さな体で、全て受け止めてくれたのだから。

 この無力な手と共に、隣に立たなければならない人がいるのだから。


 そうしてハヤトが稜線の向こう側に燻る白い光を眺めていた時だった。

 ゴンゴン、と部屋の扉が荒く叩かれる。


「来訪者ハヤトはいるか。」


 静かだが高圧的な、男の声。

 聞き覚えが無いその声に、ハヤトは「はい。」と短く返した。

 すると合図もなく部屋の扉が開かれ、鎧を着こんだ七人の兵士が部屋に入り込んで、ハヤトを取り囲む。


「ベイグルフ国王陛下より召喚の命が下された。直ちに我々と来るように。」


 彼らの鋭い目線がハヤトを射貫く。


「わかりました。」


 嫌な感覚が、胸を満たす。

 しかし抵抗をするつもりなど、そもそも無い。

 ハヤトは丈長の衣を着ただけの姿で、兵士たちに連れられていった。

 明かりは先頭と最後尾の兵士が持つ松明だけだ。素足が暗がりに広がる冷たい石床に張り付いて心地が悪い。しかし苦言を呈したところで、彼らが気を傾けてくれるとも思えない。

 しばらく城の中を歩いていくと、鉄板で補強された両開き扉の前に辿りつく。

 金具が軋む嫌な音を立てながら開かれていく扉の先には、縦長の部屋があった。両サイドには手前から向こうまで続く長机が置かれていて、奥には初日以来姿を見ていなかった人物と、見慣れつつあった人物が立っていた。


「進め。」


 兵士が槍の柄の先で背中を突く。だがハヤトは黙って従う。

ハヤトは一歩、また一歩と緩やかな足取りで、彼らの前に立った。

白混じりの茶色い髪と髭の男。それから、鎧を着こんだ男。


「ご命令に従い、参上しました。」


ハヤトは木組みの玉座に腰かける王国の主、ベイグルフ王に傅いた。

その男は片膝をついて首を垂れるハヤトを、二段高いところから見下ろしている。


「お前は来訪者ホノカ・タヌキと共にこの世界へ来た、ハヤト・エンドウであるな。」

「はい。」


 ベイグルフ王は深く、長い溜息を吐く。


「お前の役目はわかっているな。」


 自分の役目。それはフロリアーレ王国のために戦うこと。


「はい。王国のために戦うことです。」

「……如何にも。」


 ハヤトの答えを聞いたベイグルフ王は喉の奥で唸る。


「その役目、果たす機会をくれてやる。」


 役目を果たす機会とは?

 ハヤトの頭に浮かぶ疑問への答えは、すぐに得られた。

 ベイグルフ王は玉座の肘掛をしっかりと掴んで立ち上がると、ハヤトに向かって轟くような低い声で告げる。


「お前にフラガライア辺境伯領のハアースへ向かい、治安を維持する任を与える。直ちに向かい、己の任を務めよ。」


 フラガライア辺境伯領。初めて聞く地名だった。ただこの手の流れにハヤトは覚えがある。厄介者を国で一番の辺境に追いやってしまって、無かったことにしようとするパターンだ。

 抗議も抵抗も受け入れられず、問答無用で追い払われる。

 ただハヤトは感情に任せて抗議や抵抗をするどころか、むしろ嫌なくらいに冷静だった。

 元々、女神のちょっとした手違いで幼馴染と共に異世界へ送り込まれた身だった。

 アプリー公爵やフィグマリーグ侯爵、ブローソム公爵の御三家と、彼らの家族たち。パトリッシア宰相。薔薇剪定師の夫妻。そういった人たちは、単に「おまけ」として連れて来られただけの、「幸運の加護」しか持たない自分にも温かく接してくれた。クリオや大きな瞳の召使いにように、親身になってくれる人もいた。

 一人ひとりの表情や声、かけてくれた言葉、与えてくれた知識や技術を思い返していると、アニメやマンガで見てきた主人公たちの悲惨な状況と比べて、ずっと良くしてもらえたように思う。

 それからハヤトは、クリオの訓練に参加していた男たちのことも思い出していた。彼らは王国や王国の民のために戦い、勝利することを望んでいた。彼らのように誰かのために戦える男になりたいと思って、たった六日ではあるが、あの過酷な訓練に身を投じたのだ。

 そして大きな瞳の召使いは、一度は折れかかったこの意思を強いモノにしてくれた。胸の中を占めていた曇りを全て引き受けて、この意思を自分で自分に言い聞かせるための「言い訳」だけを自分の胸の中に残してくれた。

 抗議も、抵抗も、後退も、諦観も、弱い手と共にあらなければいけないこの自分が、選ぶべき選択肢ではなくなった。

 そうであるならば、「俺」は__


「わかりました。必ずや達成してみせます」


 頭上の高いところから細めた茶色い瞳で射貫いてくるベイグルフ王に、ハヤトは不敵な笑みを浮かべながら答えてみせた。


「行け。」


 重々しい足取りで玉座の裏側へ消えていく、ベイグルフ王。

 その背中を傅いたまま睨む、ハヤト。

 その二人の姿を傍観していた人物がいる。


「……私は、反対したのです。しかし陛下のご意思は固く……。」

「いいんです。王様には嫌われてそうだなあとは、最初から思ってたので。」


 がちゃり、と金具が鳴る。青銅の鎧を着こんでいるクリオは瞼を下ろし、ハヤトに頭を下げたのだ。


「それにクリオさんの訓練を受けたんですから、そう簡単には死にませんよ。」

「ハヤトくん……。」


 クリオは、頭を上げなかった。

 しばらくした後。彼はゆっくりと頭を上げてハヤトの黒い瞳を見ると、二段高いところから駆け下りてきて、ハヤトの肩をしっかりと掴んだ。


「辺境伯領はこの辺りより温かいですが、夜の寒さには気をつけて。ハアースは王都のように整えられた都市ではありませんから、病気には特に気をつけて。それからハアースの自警団の教官と傭兵ギルドのギルドマスターは、きっとハヤトくんの力になってくれます。彼らを頼ってください。」

「わ、わかりました!」


 ハヤト本人よりもクリオの方が思い詰めているような気がしてやまない。反対したと本人は言ったが、きっとかなり強く働きかけてくれたのだろう。

 そんなクリオは「最後に。」と言って、左腰に携えている剣をベルトの金具から取り外し、ハヤトに差し出した。


「これをあなたに差し上げます。」

「クリオさんがいつも持ってる……。」


 ハヤトがクリオから受け取った、革張りの鞘に納められた短めの剣。手を守る鍔は銀色に輝いていて、深い切り込みが特徴の三つ又の葉の装飾があしらわれている。鞘から刃を引き抜くと、鋭い片刃が壁に掛けられた松明の明かりに照らされて妖しく光る。

 鏡のように磨かれた刀身越しに、クリオはハヤトの前で右手を胸に添えた。


「私、クリオ・オーラ・モンカソーは国王陛下より賜った爵位において、あなたの名誉と身分を保証し、あなたを庇護すると誓いましょう。」

「クリオさん……。」


 クリオの目は柔らかい曲線を描き、澄んだ琥珀色の瞳に異世界の少年を映す。ハヤトの黒い瞳の奥に灯る、小さな火だけを。


「あなたの無事を祈っています。」


 クリオは小手と手袋を外し、素肌の右手を差し出す。

 ハヤトは揺らめく松明に照らされる刀身を、革張りの鞘に納めた。


「はい。無事に帰ってきます。」


 重なる手と手。交わす目と目。

 二人の男の間で、一本の松明が煌々と燃え盛っている。



 城の外には天幕付きの馬車が留められていた。荷台には巻いた布や木箱に入った雑貨が既に積み込まれつつあって、作業する召使いたちに細かく指示をするブローソム公爵の姿もあった。

 彼は手元の巻物と荷物を運ぶ召使いを交互に見ていたが、城から出てきたクリオとハヤトの姿を見つけると、巻物を近くにいた召使いに預けて振り返った。


「こちらは間もなく用意が整います。」

「さすがは宮内卿殿。仕事が早い。」

「陛下のご命令ですから。」


 クリオとブローソム公爵が話している横でも召使いたちが忙しなく動き回って、荷台に荷物を積み込んでいく。


「ハヤトくんは大丈夫ですか。」


 ブローソム公爵の目線がハヤトに向く。準備の確認というよりも、不安と心配が表情にはよく出ている。眉頭は上へ向いていて、細目はさらに細くなっていた。

 その一方で、ハヤトはいたって冷静に頷く。


「はい。覚悟はできています。」


 ただ、ブローソム公爵の顔は晴れない。


「子どもは宝だと、よく言います。しかし国の将来を託すべき子どもに、国の将来を背負わせてしまうのは間違っている。」


 ブローソム公爵の細い目が、僅かに開く。

 新緑を思わせる淡い緑色の瞳は、西の方角の遥か遠くにそびえる山々の、どこかのあるところを見つめていた。


「私たち大人が築きあげた『国』という財産を、子どもが引き継いで、さらに育んでいく。そしてまた子どもたちが、下の世代に引き継いでもらう。そのようにあるべきだと、私は考えています。」


 瞼が下り、優しそうな細目に戻ると、再びハヤトに向き直る。


「キミにはきっとこれからも、私たち大人が解決すべき多くの事を背負わせてしまうことになるかもしれません。私の力の及ばぬあまりに。どうか、許してください。」

「いや、そんな……ブローソム公爵は気にしなくて全然大丈夫ですから。」


 鞘を握る手に、力がこもる。


「強くなるって、決めたので。だからたくさん任せてください。ちゃちゃっと全部解決して、俺の経験値にしちゃいますから。」


 ハヤトはそう言って、握り拳で胸を叩いた。大胆不敵な笑みと一緒に。

 するとブローソム公爵は驚いたように眉を上げたと思えば、今度は目元いっぱいに涙を浮かべながら、微笑んだ。


「まったく。頼もしい少年ですね、ハヤトくんは。」


 ブローソム公爵は長い袖で包んだ腕でハヤトの肩をしっかりと抱き、二度、三度と背中を優しく叩いた。


「どうかご無事で。あなたの行く先に、幸運の一番星の輝きがあらんことを。」

「お世話になりました。……アルルータさん。」

「こちらこそ。来てくれて、本当にありがとう。」


 ブローソム公爵と言葉を交わし終えた、ちょうどその頃。召使いたちの作業も終わり、御者台には幅広の帽子を被った男が座って鞭と手綱を握っている。いよいよ出発する時が来たようだった。

 ああ、とハヤトは城を見上げる。このように急ではなかったら、挨拶してまわりたい相手はたくさんいたのに。パトリッシア宰相や、ロイ王子にルーク王子。剪定師の夫妻。あの大きな瞳の召使いにも。せめて名前くらい聞いておけばよかった。

 それから、ホノカとも話したかった。

 でも、彼女ならきっと大丈夫だ。全てを誰かが助けてくれるはずの、この城にいるのだから。日本で過ごしたあの日常のように、自分が何もかも助ける必要はない。

 思えば、あの日常が遠い昔のことのように感じられる。

 これがいわゆる「ノスタルジー」というやつなのだろうかと内心で微笑みながら、ハヤトは軽い足取りで馬車の荷台に乗り込んだ。


「無理だけはしないでくださいね、ハヤトくん。」

「どうしようもなくなった時は、私の名前を遠慮なく使ってください。」

「はい、わかりました!」


 御者が鞭で馬の尻を叩くと、鉄板を履いた車輪が、ごとり、という鈍い音を鳴らす。

 遠くなる、王の城。小さくなる二人の姿。

 荷台の中に顔を引っ込めた時には、初めてこの城に訪れた時にも見た石壁に開いた門を再びくぐり、閑静な住宅街に入りつつあった。


「ハヤトさまーーーーッ!!」


 遠くから届く凛とした、しかしあどけなさが残る愛らしい声。

 荷物の隙間に体を預けていたハヤトは、木箱の山を崩しそうになりながら、急いで荷台から顔を出した。

 遠く、遠く。石壁の城門の下に、彼女はいた。


「お体にお気をつけてーーーッ!!」


 早朝の暗がりと距離のせいで、表情を窺い知ることはもうできないけれど。しかしきっとあの少女はああして両手いっぱいに手を振りながら、愛らしい顔で愛らしい笑顔を向けてくれていることだろう。

 会話できるほどの時間はない。名前を聞くこともできない。

 けれど全力で手を振ってくれる少女に、全力で手を振り返すことはできる。

 遠く、遠く。姿が見えなくなるくらい、遠くなるまで。


 ごとり、ごとりと車輪が回る。静かな街に馬車一台。ごとり、ごとりと車輪が回る。

 上下に揺れる馬車の荷台に上下に揺さぶられ、ハヤトは荷物の山に背中を預ける。革張りの鞘と胸の温かみを両手でしっかりと握りしめながら。



 月がひとつとホタルいっぴき 屋根の上をぐるぐるまわる

 ムクドリいちわと星ひとつ 棚の上でゆらゆら歌う

 金塊ひとつとランタンひとつ 坑道の中できらきら光る

 ネコいっぴきとネズミいっぴき 甲板の上でぴょんぴょん跳ねる

 糸いっぽんと指いっぽん 音符の上をこつこつ叩く

 下僕ひとりと奴隷ひとり 窓の上をぴかぴか磨く

 ヤギいっとうとお化けひとり 壁の上でウインクする

 ぐるぐる ぐるぐる

 月とホタルが 屋根の上をぐるぐるまわる



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