07:子守唄
食事を終えたハヤトは念のため、消化を待つことにした。少しの間ベッドで横になったら、大きな瞳の召使いに頼んで用意してもらった手ぬぐい片手に、再びクリオの指導を受けた場所に向かう。
そこでは数十人の半裸の男たちが縦横に何列か並んで剣を振るっている。乱れのない、統率の取られたその動きに感心していたハヤトが、彼らを指導していたクリオの姿を見つけると同時に、クリオもまたハヤトへ視線を向ける。
「訓練道具はそこの倉庫です。」
「はい!」
要するに「さっさと始めろ」と言いたいのだろうと理解したハヤトは、近くの煉瓦造りの小屋で手入れの行き届いた鉄剣を手に入れ、最後尾で剣を振りはじめた。
目標は、もちろん千回。一回目からしっかりと進捗を数える。
頭の上から腰の下まで真っ直ぐに。剣の重さを利用して、余計な力は加えない。
男たちが全身から汗を散らし、鉄剣で空を切る、ぶおん、という音に一人分が新たに加わった。
「ねえ、あの人。来訪者のハヤト様じゃない?」
「さっそく近衛騎士隊長様の訓練に参加していらっしゃるわ。ちょっとお体は貧相だけど、なんて頼もしいのでしょう。」
訓練場の近くを通り過ぎる召使いから向けられる目線をこそばゆく思いつつ、ハヤトは剣の重さと体の動きに、より一層集中する。
手のひらにじんじんと感じていたあの痛みは、柄に巻かれた布切れに滲む「赤」が広がるたびに少しずつ鈍くなり、二百回を終えた頃には既に無くなっていた。
「もっと鋭く、もっと感情を込めてください。その剣は、その体は、その命は、王国と王国に住む民の命と平穏を脅かす敵たちを威圧し、畏怖させ、大地に伏せさせるためにあるのです。」
この世界に来た時、ルークが語った「リアヌ人」への煮えたぎるような感情。それが怒りによるものなのか、恐れによるものなのか、あの時はまったく理解できなかった。
しかしこうして男たちに囲まれながら剣を振っていると肌で、目で、あらゆる器官で感じられる熱も。クリオの言葉に宿っている意味も、今のハヤトには少しは理解できる。
彼らは王国と王国の民が奪われ、虐げられ、蔑まれるのを黙って受け入れるつもりはないのだ。王国と王国の民の尊厳や財産を、戦うことで取り戻したいのだ。
剣の先の、ずっと向こう側。彼らがそこに見ている、彼らの「敵」から。
「きゅうひゃく、にじゅういち!」
幾滴も土に汗を吸わせ、幾滴も血を滴らせても。それがまだ見ぬ勝利に繋がっていると、本気で信じているから。だから彼らはこれほどまでに、晴れ晴れとした顔をしているのだ。
「きゅうひゃく……ごじゅう!」
そして自分も、彼らのような戦士にならなければならない。
「せん!」
ハヤトが千回の素振りを終えた頃には、他の男たちはとっくに素振りを終えて、次の訓練を始める準備をしていた。その傍らではあったが、訓練場の隅で素振りを続けるハヤトの姿を見ていた。
応援するのでも、助言するのでもなく。ただ、見ていた。
「では剣術指南を始めます。」
クリオの一言で男たちは二人一組となり、すぐに木の棒での打ち合いをはじめた。
ハヤトの前にはクリオから名指しされた若い男が立っていて、ハヤトに木の棒を渡した。手元の部分には布切れがしっかりと巻かれている。
「正直に言うと、来訪者様に殴りかかるのは気が引ける。でも騎士隊長が容赦はするなって言うからさ、悪いな。」
「こちらこそ、手心は無しでお願いします。」
若い男はそれきりで、すぐにハヤトに襲いかかってきた。
頭上から真下へ。右から左へ。左から右へ。大振りで力のこもった攻撃がハヤトに躊躇いなく差し向けられる。ハヤトは反撃する余地もなく、それが体に届かないように防ぐので精一杯で、立ち向かってくる男に対して一歩、一歩と押し退けられてしまう。
「うぐ……ぐ……。」
しかし相手の木の棒や手元の動きにばかり目を向けていれば、突きや蹴りへの警戒はおろそかになる。防ぎ方もわからず、機敏さでも負け、二歩三歩と後ろに追いやられる。
突然若い男が攻撃を止めた。挑発する代わりに木の棒を肩に置き、隙を晒している。
踏み出すのなら今しかない。考える前に、足が動く。
一歩、二歩。大地を踏みしめ、木の棒を思いっきり振り上げた。
胸に、とん、とんとゆったりとしたペースで響く、優しい振動。
「う……うう……。」
ハヤトが次に目覚めたのは、部屋のベッドの上だった。
「ハヤト様。お加減はいかがですか。」
ベッドの側には大きな瞳の召使いが座っていて、胸の辺りに手を置いてくれている。
頭の中がぼんやりとしている。クリオの訓練に参加して、素振りを終えたら打ちあいが始まった。若い男に一方的に殴られたことまでは覚えていたが、次第に頭痛が激しくなるばかりで、そこから先の記憶は思い出せない。
「ハヤト様、訓練中に突然倒れられたんですよ。」
それでハヤトは、そうか、と気づく。
結局、あの一撃も届かなかったのだろう。徹底的にいたぶられて、実力の差をまざまざと見せつけられて、果てはこうしてベッドの上。
「情けないなあ……。」
「ハヤト様……。」
すると大きな瞳の召使いは、ハヤトの胸の辺りを優しく、とん、とんと叩きはじめた。
「今はゆっくりとお休みになってください。」
柔らかい声の囁きが、耳に心地よい。
しかし頭痛の激しい頭の中は、考え事で満たされている。あの攻撃はこうして凌ごうだとか、この攻撃はどうやって防ごうだとか、こういうように攻撃してみようだとか。とにかく、色々なことで。
「眠れませんか?」
見透かされていたのだろう。目は瞑っているのに、大きな瞳の召使いはそう囁く。
「では僭越ながら、子守唄でも一つ。」
そう言って大きな瞳の召使いは、小さな咳払いを一つしてから、歌いはじめた。
月がひとつとホタルいっぴき 屋根の上をぐるぐるまわる
ムクドリいちわと星ひとつ 棚の上でゆらゆら歌う
金塊ひとつとランタンひとつ 坑道の中できらきら光る
ネコいっぴきとネズミいっぴき 甲板の上でぴょんぴょん跳ねる
糸いっぽんと指いっぽん 音符の上をこつこつ叩く
下僕ひとりと奴隷ひとり 窓の上をぴかぴか磨く
ヤギいっとうとお化けひとり 壁の上でウインクする
ぐるぐる ぐるぐる
月とホタルが 屋根の上をぐるぐるまわる
少女の柔らかい声はひどい頭痛で締め付けられていた頭から一つ、一つと考え事を取り除き、痛みに喘いで上下する胸を落ち着かせていく。
ハヤトの体が動かなくなり、呼吸が規則正しくなった後も、大きな瞳の召使いはハヤトの胸を、とん、とんと優しく叩く。
部屋を照らす燭台の灯火がゆらゆらと揺らめきながら、ハヤトの横顔を照らしていた。
朝起きたらバラの庭園に顔を出して、クリオのしごきを受ける。食事をし、消化を待った後は兵士たちに混ざって剣を振り、打ち合いで全身を痛めつけられる。大きな瞳の召使いに手当をしてもらってから二度目の食事をとり、彼女と少し雑談をした後、事切れたようにベッドで眠る。
そのような生活が始まってから、今日で六日目。この日もハヤトは裏口から城を出て、バラの庭園に足を運ぶ。
ただ今日は、先客がいた。とてもよく見慣れた、しかしこの六日間でほとんど顔を合わせていなかった、その人が。
「おはよう、ホノカ。」
「あっ、ハヤト。おはよ。」
このような早い時間にこの幼馴染が起きられるとは思っていなかったハヤトは、エルクと何か話していたところだったホノカの隣に行く。
「おはようございます、エルクさん、オーグスタンさん。」
「おはよう、ハヤトくん。」
「……ああ。」
挨拶をすればエルクの朗らかな笑顔とオーグスタンのぶっきらぼうな返事が返ってくるのも、この世界での新たな日常になりつつある。
「あれ。ハヤトはもう二人のこと知ってるんだ。」
「うん。この前探検してたらここを見つけて、その時にね。」
「ふーん。あっそ。」
ああ、誘わなかったことを根に持っているのだろうなとハヤトは直感で理解した。とはいえ寝ているところをわざわざ起こすのも気が進まないのだから、しかたがない。
「さあて。ハヤトくんも来たし、今日もバラのことを教えてあげなくっちゃ!」
初めて会った日から少しずつバラのことを教えてもらったことで、多少はバラに詳しくなったとハヤトは自負している。ただ同じ種類での品種の見分けや、みだりに触れてはいけないバラのことなど、まだまだ分からないことの方が多い。
知れば知るほど、自分がどれだけ無知だったのかばかりがわからされる。そういう感覚だ。
「今日は何を教えてくれますか?」
「ふふふ。今日はね……。」
エルクは温かな笑みを浮かべたまま、庭園の奥へ目線を向けた。
「この国で、最も大切なバラを見せてあげる。」
「……む。」
黙々と作業していたオーグスタンが、反応を示す。
「……彼なら、いいだろう。」
「ええ。ハヤトくんだもの、大丈夫よ。」
王国で最も大切なバラ。
それはこの庭園__「薔薇の城」の最奥に植えられている。
少し開けているところに置かれている、鉄の椅子とテーブル。それらを囲むように茎と棘を伸ばすバラ。三重の花弁は赤や白や黄で彩られ、華やかで気高い姿をしている。花からはバラの上品な香りがほんのりと漂っていて、中心に立つとバラのドレスを纏っている感覚になる。
そこはまるで薔薇の城に築かれた、小さなバラの箱庭。
「このバラは『ルエイ・エル・アルター』。この庭でだけ作られている、王のためのバラ。」
「王のための……。」
「……バラ。」
ハヤトとホノカは改めて「ルエイ・エル・アルター」を見遣る。
三重の花弁は王冠のように先が立ち、茎が細く棘は鋭い。そして可憐な見た目とかぐわしい香りを兼ね備え、そのどちらもが一級品。
気高く、美しく、可憐に咲く。まさしく「王の薔薇」。
そんな王国で最も大切なバラ「ルエイ・エル・アルター」もまた、このエルクとオーグスタンの夫妻がたった二人で管理しているのだ。
「エルクさんとオーグスタンさんって、すごい人なんですね。」
「ようやく気が付いてくれたのね。実は私、おしゃべり好きなだけのおばさんじゃないのよー。」
エルクが、ふふふ、と穏やかな笑みを浮かべていると、近くで作業をしていたオーグスタンがおもむろに立ち上がり、ハヤトに手を差し出した。
「……陛下から、『薔薇剪定師』の任を賜っている。……オーグスタン・ベリアだ。」
「同じく『薔薇剪定師』のお役目をいただいています。エルク・シルアスです。」
薔薇剪定師。国王直々に任命される、庭園のバラを管理するためだけの役職。
そして、「王の薔薇」を預かる人物。
目の前にいるのはおしゃべり好きのおばさんと、職人気質のおじさんではなかった。
「異世界から来ました、ハヤト・エンドウです。」
「ホノカ・タヌキです。よろしくお願いします。」
「ええ。これからもよろしくね。ハヤトくん、ホノカちゃん。」
「……ああ。」
素っ気ない夫と、肘で小突く妻。
笑顔と温かい空気で満たされているこの空間は、華やかなバラで彩られていた。
剪定師の夫妻と別れたハヤトとホノカは、城の軒の下をゆっくりと歩いている。
「ハヤトはこんな朝早くに、なんであそこに来たの?」
ホノカが訊ねると、ハヤトはやや気恥ずかしそうに頬を掻く。
「実は、クリオさんに訓練をしてもらってて。」
「え。ハヤトも?」
ハヤトも、という表現がハヤトの頭で引っかかる。
「ホノカも訓練してたの?」
「うん。アプリー公爵さんに剣術を教えてもらってる。」
アプリー公爵。晩餐会で最初に話した、あの大柄な男である。
「いいなー、クリオさん優しそうだもんなー。私もクリオさんに教わりたい。」
最初は誰でもそう思うだろう。
しかし現実を知る者ハヤトは、この六日で経た過酷な訓練を思い返して顔を青ざめる。
朝に五百回。昼に千回の素振り。その後は実戦形式の一対一の打ちあい。
精神と肉体を徹底的に痛めつけ、限界を超えた先にあるものを目指す。最初の三日は思い出すだけで手の生傷がさらに疼いたものだ。しかし今日は起きてから今まで手が疼かない。
自身の適応力を称えるべきか、それとも呪うべきか。内心に複雑な気持ちを抱えたまま、いつものように訓練場へやってきた。
しかし今日はいつもとは異なり、クリオはあの重たそうな鎧をしっかりと着こんでいた。
「おはようございます。」
「おはようございます、ハヤトくん。ホノカさん。」
「今日はよろしくお願いします。」
そういえば、なぜこの朝に弱い幼馴染が起きていたのかがハヤトは疑問だった。ただこの様子からして、どうやらクリオが鎧を着ていることに関係がありそうだ。
「アプリー公爵から話は聞いています。さっそく始めましょう。」
「あ、その前にちょっと準備運動だけしていいですか。」
クリオは「ふむ。」と一瞬考えたが。
「お好きなようにどうぞ。」
と、にこやかに答えた。
ホノカは丈長の衣の裾をたくし上げて結び、下半身を伸ばす運動や腰を捻る運動、上半身を大きく回す運動など、ラジオから流れるのをよく聞いた運動を一通りこなす。そして柵に立てかけられていた鉄剣を手に取り、訓練場の中央でクリオと向かい合う。
一つ、二つと深く呼吸をすると、最も基本的であり、最も効果的な構えをとった。
「胸をお借りします。」
「全力でどうぞ。」
ホノカの瞳が、緑色に煌めいた。
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