06:「あーん」

 王宮の朝は、日本人の目覚めよりもやや遅い。

 八時には出勤登校を済ませている日本人と異なり、彼らの八時はまだ眠気とベッドに身を任せている時間だ。まあ、そもそも寝泊まりしている場所イコール勤務先で、そもそも時計が存在しないのだが。

 ただ九時頃には召使いたちは各々身だしなみを整え、割り当てられた仕事にとりかかる。

 特に炊事場は大忙しである。夜警の兵士たちのための食事を大鍋でまとめて作り、鍋ごと兵舎に持っていく。その後は王族や宰相、客人などの要人の食事を作り、給仕係に引き渡す。そして最後に朝の仕事を終えた召使いたちの食事を作ったら、控え室に持っていったり、直接取りに来た召使いに配ったりする。炊事係はそこまでしてようやく自分の食事にありつけるというわけだ。

 それを思えば、自分がこうして給仕係の人に部屋まで持ってきてもらった食事を食べるだけでいいというのが、どれほどありがたいことか。


「私たちの仕事に興味を持たれるなんて、ハヤト様は変わったお人ですね。」


 食べている間の暇つぶしがてら、炊事係の仕事の大変さについて話してくれたのは、昨日この部屋の前に立っていた大きな茶色い瞳が特徴の召使いらしき……いや、まごうことなく召使いだった、あの少女である。


「召使いの人って色々な仕事を担当するんですか?」

「担当によりますね。炊事係は基本的に同じ者が担当しますが、お給仕やお掃除の担当は朝と夕方、三日ごとみたいに入れ替わりがあります。」


 入れ替えには何か意味があるのだろうか。手の痛みに耐えつつ、スープにたっぷりと浮かんでいる豆と野菜を食みながら訊ねると、大きな瞳の召使いは思い出したくないことを思い出したような、苦い表情を見せる。


「まあ、何と言いますか。仕事とか、担当する場所とかによって、その……大変さが違うと言いますか……。」


 ああ、とハヤトは理解した。

 掃除に関しては言わずもがな。給仕にしたって手がかかったり気を遣ったりする相手はいるだろう。そういう負担はなるべく広く浅く分担しようというのが目的だったようだ。


「特に……あ、いや、誰とは言いませんけども。お食事に夢中になるあまり、机とかお召し物とかを汚されてしまう方も、まあ、たーまに……たーまにね!いらっしゃいますし。」

「客の相手をするってのも大変なんですね。」

「あっ、ハヤト様のお相手をするのは全然大変じゃないですからね!ハヤト様のお食事姿はどれほど見ても飽きないくらい、とってもお美しいですから!」


 できれば食事中にじろじろ見るのは控えてほしいが、王の城で働く召使いにそこまで褒めてもらえるのは、悪い気はしない。


「……あの、ハヤト様。」


 ただ召使いの少女は食べ姿を眺める間、時折ハヤトの手元に目線を向けていた。


「そのお手の傷は、どうされたのですか?」


 言わずもがな、クリオとの訓練で負った努力の負傷である。


「実は朝、くり……モンカソー男爵に、剣術を教えてもらって。その時に。」


 ハヤトが少し恥ずかしそうにそう言うと、大きな瞳の召使いは突然「ええーーっ!!」とかなり大きな声をあげた。外に控えていた召使いたちも何事かと中を覗いているが、召使いの少女は彼らに構わずハヤトに詰め寄った。


「本人は優しい笑顔のまま徹底的に追い詰めてきて、食べた物全部吐き出してから本番で、精神を完全にへし折りにくる、『笑顔地獄』って呼ばれてる近衛騎士隊長の訓練をですか?!」

「なにその物騒な呼び方?!てか評判もエグいな?!」


 確かに身に覚えはある。優しい笑顔のまま、大したことではないかのように過酷な目標を課してくる。その辛さのなんたるほどか。


「で、でも終わった後にちゃんと治療も……。」

「いやいやいやいや!そんな半端な治療なんて、次の訓練で消し飛ぶんです!無意味なんです!怪我防止のために完全装備しても、終わった後は身も心もボロボロなんです!」

「そ、そうなんだ……。」


 聞くだけで心臓がきゅっとなるような訓練に、なぜ自分は進んで参加しようとしてしまったのだろうか。しかしそれほど過酷な訓練を乗り越えれば、確かな実力を身につけられるに違いない。


 __でもストレートにそう言ってもつまんないかなあ。


 魔が差した、というやつである。

 ハヤトは食事の手を止め、木のスプーンをゆっくりと下ろしながら、木板の扉窓を流し目に見遣る。


「俺、強くならないといけないんだ。」

「!」


 大きな瞳の召使いがその姿を見て何を思ったのかは、定かではない。

 ただ少なくとも、召使いの少女の心を強く打ったのは間違いなかった。


「ハヤト様!私っ!全力でっ!ハヤト様のお世話をさせていただきますっ!」

「へっ?!あ、はい。ありがとうございます?」


 大きな瞳をきらきらと輝かせる大きな瞳の召使いは、さっそく鼻息を荒くしながら木のスプーンをハヤトから奪い取る。


「さあハヤト様!私がっ!口元まで運んで差し上げますからっ!たくさんお召し上がりくださいっ!」

「いやいや、そこまでしてくれなくても?!」


 しかし大きな瞳の召使いは可愛らしい顔をじりじりと寄せながら、大きな瞳と鼻息で強烈な圧力をかけてくる。


「さあ!ハヤト様!さあ!」


 豆と野菜が浮かぶスープが木のスプーンの上で震えている。

 もはや恥ずかしさや気後れを言い訳に逃れられそうにない。

 それに、悪い状況ではない気がしてきた。可愛い召使いメイドさんに「あーん」してもらえるチャンスなのだ。しかも嫌々でも営業でもなく、本人から望んでやってくれる。あとは先ほどからずっと部屋を覗いている召使いたちに見られるのが、ちょっとだけ恥ずかしいのを我慢すれば……。


「あ、あー……。」

「あーんっ。」


 ハヤトがスプーンを咥えると、スプーンの曲線に添って少しずつ傾けながら引き抜いてくれる。木のスプーンなので滑りにくいはずが、彼女の細かな配慮のおかげでスープをしっかり口に含むことができる。

 そんな、やけに「あーん」をするのが上手い大きな瞳の召使いは、豆と野菜を咀嚼するハヤトを満面の笑みで見つめている。


「はいっ、あーん!」

「……あーん。」


 次から次へ、また次から次へと口に運ばれてくる食事を食べるだけ。食事は給仕係が持ってきてくれる。部屋も衣服も掃除係が綺麗にしてくれる。至れり尽くせりとは、まさにこのこと。


「さあハヤト様!あーん!」

「あーん。」


 段々とこの公開処刑じみた「あーん」にも慣れてきた。手が痛かったのでちょうどよかったし、可愛い召使いメイドさんに食べさせてもらうというのはやはり気分がいい。この大きな瞳の召使いがやけに「あーん」が上手いという点には疑問が残るが。


「ハヤト様!はいっ、あーん!」

「あーん。」


 そうしてほとんど食べ終わり、最後の一口をゆっくりと嚥下した。


「ごちそうさまでした。」

「お気に召していただけたようで何よりです!」


 大きな瞳の召使いは今日一番の笑顔を見せてくれる。


「明日も近衛騎士隊長の訓練に参加されるのですか?」

「まあ、今のところはそのつもりだけど。」

「じゃあ明日も口元に運んで差し上げますね!」

「いや、明日は……。」


 だがしかし。訓練で頑張った後は召使いメイドさんに「あーん」してもらえるなんて、ただのご褒美ではないだろうか。努力の対価がちょっと早めに目に見えるものになるだけであって、別にやましい理由はない。そうだ、きっとそうであるに違いない。


「じゃ、じゃあ。明日も、お願いします。」

「へー。明日も女の子に『あーん』してもらいたいんだ。」


 ハヤトの顔は、一瞬で凍りついた。

 ハヤトは理解した。最も見られてはいけない人物に、最も見られてはいけない状況を見られてしまったということを。

 それからの男の判断は早い。


「ち、違うんだホノカ!誓って!断じて!やましい理由じゃない!」

「ふーん?やましい理由があると私が勘違いしたと思ったんだー?どうしてかなー?」


 ただし、その判断が正しいとは限らない。


「王様のお客さんって立場を利用して女の子に『あーん』させるって、ちょっとキモイよ、ハヤト。」

「ちっ、ちがっ……違うんだホノカ!結果には、それに至るまでの過程というものが!」

「そうです、事実と異なります!ハヤト様のお体を楽にして差し上げるために、私自ら身も心も捧げていたのです!」

「なんなんですかその言い方?!」

「えっ、うそ……。いつの間にそんなところまで?!」

「ホノカも真に受けないで!」


 話の落としどころが遠のいていくのが、意識の闇の中で一筋の光として見える気がする。


「まあ、全部見てたんだけどね。」

「え?」


 全部?全部とは?具体的にどこからどこまで?


「そうですね。私の叫び声に気がついたホノカ様が、召使いに混ざってハラハラドキドキしていらっしゃるのは私も見えていました。」

「はっ、ハラハラドキドキなんかしてないし?!」

「……え?」


 __気づいてなかったの、俺だけ?


 クリオに指導をしてもらったことも。自分のカッコつけでなぜか大きな瞳の召使いが興奮して、暴走しはじめたことも。大きな瞳の召使いの押しに耐え切れず、「あーん」を受け入れてしまったことも。次第に「あーん」されるのが楽しくなってきていたことも。

 全部だ。わりと本当に全部バレてた。


「ハヤトも男の子だもんねー。可愛い女の子に『あーん』してもらったら、嬉しくなっちゃうよねー。」

「ええ、女に尽くされて幸せを感じない男はいないのです!特に私みたいな美女なら!」


 大きな瞳の召使いはなぜこの状況でそこまで自信を表に出せるのだろうかと思いながら、ハヤトは光を失った目で大きな瞳の召使いとホノカの様子を交互に窺う。


「……私は?」

「ん?」


 様子を見ていたからこそわかる、ホノカの変化。


「私に『あーん』されたら、嬉しい?」


 ハヤトの顔は、一瞬で凍りついた。

 ハヤトは理解した。この場面こそが、己の尊厳を挽回する唯一の機会だということに。

 それからの男の判断は早い。


「すっごく嬉しいです!!」

「ひぇっ?!」


 そしてホノカは顔どころか耳と首まで赤くして、こう返した。


「ハヤトのえっち!!」

「ええーーっ?!」


 咄嗟に出した判断が正しいとは限らない。

 ただし、判断が正しかったのかどうかをその場で判別できるとも限らない。

 ホノカが部屋から飛び出す直前、何か呟いたように見えた。何を言ったのかは、距離と声量のせいでまったくわからなかったが……。


「まったく。幸せ者ですねえ、ハヤト様は。」


 ホノカの口元に笑みが浮かんでいたことだけは、ハヤトにもちゃんと見えていた。

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