05:庭園と訓練
目覚まし時計のアラームが無くても朝に眠りから覚めるのは、幼馴染のために毎朝早起きをしているせいだろうか。それともゲームやアニメに熱中して、深夜の二時三時まで起きていなかったせいだろうか。
ハヤトは眠気を感じない頭でそのようなことを考えながら、寝ている間に落としてしまったらしい掛布団をベッドの上に戻してから、思いきり伸びをした。
部屋の隅に置かれている円形のテーブルに用意されていた丈長の衣を着る。腰より少し上の位置で細いベルトを軽く締め、袖は粗い布地の紐で縛る。
「なんか太って見えるな。」
体形にフィットしたデザインではないので、胸部や腕が少し太く見えてしまう。細く見せたい女子が嫌がりそうなデザインだ。
それよりも、朝食を取りたい。
「誰かいるかな。」
部屋の扉をそっと開け、外を覗く。
扉の周りには召使いらしき人は一人もおらず、ひんやりとした空気が肌に触れるだけ。
「まだ誰も起きてないのかな。」
ふと、ハヤトの頭にこんな考えが浮かんだ。
今のうちなら城を散策できるのではなかろうか、と。
「……ちょっとだけ。ちょっとだから。」
誰に聞こえるわけでもない言い訳をしながら、ハヤトはこっそりと部屋を出た。
クリオに案内された廊下を歩いて最初に辿りつくのは、ホノカにあてがわれた部屋だ。しかし学校に行かなければならないわけではないし、昨晩はたくさん踊って疲れただろうからと、声をかけるのはやめておく。
松明やライタンには一つも火が灯っていない。暗がりはより一層足元に広がっていて、石張りの床にある小さな段差は影に潜んでいる。
気を遣いながら歩いていくと、外に繋がる大きな扉があった。その前には警備の兵士が二人立っていて、暗がりから現れたハヤトの姿を見つけると、兜の庇を目一杯に上げた。
「来訪者様?こんな早くにお目覚めですか。」
「はい。故郷ではいつもこのくらいの時間に起きていたので、なんか目覚めちゃって。」
「そうでしたか。異世界での生活というのは大変そうですな。」
金属の鎧を着こんで警備をしている彼らの方が、よほど立派だろう。
「あの。外に出たいんですけど、大丈夫ですか?」
「ここの鍵は宮内卿がお持ちなので開けられません。ただこの時間には剪定師殿が仕事を始めているはずなので、庭園に出るための裏口であれば開いているかと。」
剪定師、という聞きなれない職業は気になるが、それよりも裏口の場所を確認することの方が重要だろう。今いる場所から裏口までの道のりを詳しく教わったハヤトは兵士に礼を言い、裏口へ向かった。
相変わらずひんやりとした空気で満たされている、城の奥まった一角に裏口はある。
輪状の金具を持ってゆっくりと開ける。
そこには、一面のバラの庭園が広がっていた。
西から登る爽やかな朝日に照らされたバラは朝露に濡れていて、その一粒一粒が陽光を乱反射してきらきらと輝いている。近づくほどバラのかぐわしい香りが強く、甘くなり、ミツバチのように色とりどりのバラの花へと体が吸い寄せられていく。
「あら。見慣れない人ねえ。」
そんな時。バラの木の影から人の顔が出てきた。
「おはようございます。」
「はあい、おはようございます。」
ゆったりとした喋り方をする小太りの女は、エプロンで額の汗を拭って立ち上がる。
「俺、異世界から来たハヤト・エンドウです。」
「ああ。そういえば陛下がそんな話をしていたわね。ねえ、あなた。」
女は少し離れたところに声をかける。
「……知らん。」
「そうよねえ。あなたはわからないわよねえ。」
女は嫌味な口調で。しかし、ふふふ、と愉快そうに笑いながらハヤトに向き直る。
「私、この庭園の管理をしているエルクです。こっちは夫のオーグスタン。」
バラの庭園の管理人……ハヤトは兵士が言っていた「剪定師」という言葉を思い出した。考えるにこの二人のことだろう。
「二人で管理してるんですか?」
「ええ。陛下から賜った大切なお仕事なの。そうよね、あなた。」
「……ああ。」
「こういう人なの。ごめんなさいね。」
エルクと名乗った小太りの女はまた、ふふふ、と微笑む。
職人気質な夫と温厚な妻。対照的だがお似合いの夫婦だとハヤトは感じる。
「バラ、すごく綺麗ですね。」
「そうでしょう、そうでしょう。毎日せっせと世話しているもの。」
エルクは手元のハサミに付いていた土を払ってエプロンのポケットにしまうと、手の甲でバラの葉に優しく触れる。
「ここには主にルークス種とメッス種のバラが植わっているから、初めに見た目で楽しめて、次に香りでも楽しめるのよ。」
「ルークス……?」
バラの種類を指していることはわかるが、どれがどれかはハヤトにはさっぱりだ。
それを察したのかエルクはハヤトを自身の近くに手招いた。
「こっちの花弁がいくつも重なっているバラがルークス種の品種。こっちの良い匂いがするバラが、メッス種の品種よ。」
見比べてみると、ルークス種のバラは花弁が三重、四重と重なっていて、先端が波打っていたり、色にグラデーションがあったりするのが特徴だとわかる。メッス種のバラはルークス種のバラほどは花弁に特徴が無いものの、顔を少し寄せるだけでバラの芳醇で瑞々しい香りに全身を包まれる気分になれる。
「同じバラなのに、こんなに違うものなんですね。」
「ええ。どの子もそれぞれに良さがあって、それをちゃんと発揮できる環境さえ整えてあげれば、ハヤトくんみたいにバラの虜になってしまう人が増やせるの。」
ふふふ、と微笑むエルクにそう言われて、ハヤトはハッと気が付く。もっとたくさんのバラを見たい、知りたいと思っていたことに。
「でも良いことですよね!」
「ええ、もっちろん!」
そうしてウキウキしているのが顔によく出ているエルクに導かれるまま、隣のバラについて説明してもらおうとした時だった。
「……先に、仕事をしなさい。」
「あっ。そ、そうよね。早くお世話をしないと。」
広さのある庭園をたった二人で世話しなければならないのだから、片方が布教活動にかまけていてはいけないだろう。
「す、すいません。俺、もう行きますね。」
「私こそ引き留めてごめんなさい。」
そうして庭園を離れようとするハヤトの背中に、また声がかかった。
「……また、来なさい。」
顔こそ見えないが、穏やかな声色の主にハヤトは思いっきり笑いかけた。
「はい!また来ます!」
庭園から離れて城の軒下を歩いていくと、木の柵で作られた囲いを見つけた。そしてそこには見たことのある半裸の男性が一人でいて、左腰に携えている短めの剣とは別の、金属の剣を不乱に振っている。
「くり……モンカソー男爵。おはようございます。」
「おや。おはようございます、ハヤトくん。」
クリオは首にかけている手ぬぐいで顔や体の汗を拭う。
昨日までは鎧や丈長の衣の下にあって見ることができなかった彼の肉体は、頑強そうな分厚い筋肉で覆われていて、ところどころに目を当てるのも憚られるような傷跡が走っている。
「二人の時は、気軽に名前で呼んでくれて構いませんよ。」
「え。あ、ありがとうございます。クリオさん。」
朗らかな顔をして優しい声で話す裏で、この人物はいったいいくつの戦場へ赴いたのだろうか。それがモンカソー男爵として、騎士として、近衛騎士隊長として当然のことだと言うのならば、彼の精神力には黙って伏すしかない。
「それにしても、このような朝早くにどうしてこのようなところに?」
「いつもこのくらいの時間に起きていて、目が覚めてしまったので。散策していたんです。」
「そうでしたか。ハヤトくんは故郷でとても健康的な生活をしていたのですね。素晴らしいことです。」
本当は娯楽のために夜遅くまで起きていることもあるという事実は、黙っておこう。
「ハヤトくんもやりますか。」
クリオは、柵に立てかけていた剣の柄をハヤトに向ける。
この世界に来たからには、この手の訓練は避けて通れない。それに加護の力を持っているホノカとは違って、自分には「幸運の加護」しかないのだから、ホノカよりも努力しなければホノカと一緒にいることはできない。
であればせめて、優しく手ほどきしてくれそうな人に早い内から指導してもらった方がいいだろう。
「よろしくお願いします。」
「はい。ではこちらへ。」
クリオのように丈長の衣を脱いで半裸になったハヤトは、クリオの正面に立つ。
「盾があるならば片手で持たざるを得ませんが、剣は両手でしっかりと握るのが最も基本的な構え方であり、最も効果的な構え方です。」
クリオはハヤトによく見えるように、横を向いて剣を握る。
「右手は柄の上部、鍔にくっつくくらいの位置で。左手は右手から少し離した位置で握ってください。」
ハヤトが言われた通りに握ったのを確認すると、クリオはゆっくりと剣を持ち上げる。
「剣を振り下ろす時は、頭の後ろから腰の下まで一直線に。剣の重さを生かすことを意識してください。」
「重さを……生かす。」
ぶおん、と重い音が鳴る。
「軌道を制御しようとして余計な力が加わっていますね。もっと肩の力を抜いて、剣の重さに委ねてみましょう。」
「重さに……委ねる。」
最初よりもさらに鋭く、ぶおん、と鳴る。
「うん。良いですね。それをあと五百回。」
「五百回?!」
朗らかな顔からとんでもない数字が飛び出した気がする。気のせいか、いやしかし、耳が正常なら間違いなく彼は……。
「正確には、この動きが考えずともできるようになるまで、ですね。ほら、いーち。」
「いーち……にー……さーん……。」
いや、考えてはいけない。教えを乞うと決めたのは自分ではないか。彼の指導に従い、強い戦士になり、ホノカの隣に立って戦うのだ。
……
…………
……………………
「よんひゃく、きゅうじゅう、きゅう…………ごひゃ、く……。」
「はい、ちょうど五百回。よく頑張りましたね。」
西から顔を出したばかりの太陽が、大分高い所まで登った頃。クリオに監視されながら、ハヤトは終わりの見えなかった道程を終えた。
三百回手前くらいから手のひらの皮が剥けはじめ、四百回を超える頃には柄に巻いてある布に血が滲みはじめたが、しかし、ハヤトは間違いなくやりきったのだ。
ちなみにその間、クリオはハヤトの倍以上の速さで剣を振っていた。
「では一旦これくらいにしましょう。食事を終えたら、またここに来てください。」
「また、五百回ですか……。」
「次は千回やりましょう。」
「……ッ?!」
ハヤトは、クリオの今日一番の笑顔を見た。
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