#19

 橋本さんとの食事を終え、家に着いたのは十時頃だった。

 今日は久々にゆっくり眠れると思った。

 シャワーを浴びたあと、冷蔵庫からビールを取り出した。一気に半分程飲むと、ソファに座った。疲労感が全身にまとわりついていて、今にも眠ってしまいそうになった。

 テレビをつけてみるが、興味を聞かれるようなものはなく、すぐに消した。疲れ過ぎているせいか、何もする気力が起きず、ただ、ゆっくりビールを啜った。そして、ゆっくりとビールを啜りながら、橋本さんについて考えてみた。

 橋本さんは、これからどうするのだろうか?

 仕事を辞めて、違う仕事に就くのだろう。橋本さんであれば、どんな仕事でも問題なくこなせるような気もした。橋本さんが、違う職場で、元気に働いている姿を想像してみた。きっと、周りの人からすぐに頼られるようになるだろう。それから、上司に認められて出世をするかもしれない。今みたいにアルバイトというかたちではなく、正社員として、バリバリ働くかもしれない。橋本さんはそれくらいに能力の高い人だ。

 橋本さんは、次の職場で働いている所を想像すると、うれしい気持ちになった。今の職場なんてすぐに辞めて、今度は、もっとやりがいを持って働ける環境に行ってほしいと思った。

 そんなことを妄想しているうちに、ウトウトしてしまっていた。

 僕は、もう寝ようと思い、残ったビールをシンクに捨てた。

 寝室に向かおうとしたところ、ふらついてしまい、慌ててテーブルに手を着いた。その拍子に、テーブルの上に置きっぱなしにしていた仕事用のカバンを落としてしまった。

 カバンの中身が床に吐き出される。

 僕は、ため息をついて、床に散乱したものを拾おうとした時に、あるものが視界に入った。

 手帳だ。

 そういえば、昨日はこの手帳を取りに行ったんだ。あの時、実家で見つけたゲームカセットに書かれていた文字や、夢で見た文字が、手帳に書かれている落書きと似ているような気がして、それを確かめるために、職場まで手帳を取りに行ったのだ。

 すっかり忘れていた。

 さっそく僕は、文字を確認するために手帳を開いた。

 最後のページの文字を確認する。



 ――仮面をつけたら外せない。朝日ビル地下二階で、



 その文字はやはり独特で、まるで定規を使って書いたような文字だった。カクカクしていて、文字の大きさにバラつきがある。一見気味悪さを感じる。

 そして、その文字はやっぱりゲームカセットに書かれていた文字に似ていた。もちろんただ似ているだけで、別に関係性があるわけではないかもしれない。でも、不思議なくらいに似ている文字だった。

 そして何より、あらためて手帳の文字を見て、『仮面』という言葉が書かれていることに、驚かずにはいられなかった。

 この落書きはいったいなんなのだろうか?

 そういえば、ここに書かれている『朝日ビル地下二階』へ行った時に、あの仮面の男たちを見た。

 それに、何より昨日、同じ仮面をつけた男がうちを訪ねてきた。

 この落書きと、仮面の男たちが関係していないとは思えなかった。

 いったい、何が起きているのだろうか?

 どんなに想像を巡らせてみても、頭の中の疑問符が増えていくばかりだった。

 この文字を書いた人物にヒントがあるような気がした。そう思い、文字をジッと見ていると、この文字に見覚えがあるような気がしてきた。

 以前、この文字をよく見ていた。

 それも、最近ではなく、ずっと昔に見た気がする。

 記憶の奥の方を探っている時だった。

 ある映像が脳裏に浮かんだ。

 それは、『壁』だった。

 僕が、父に殴られている時に、僕を守ってくれていた『壁』。父がどんなに乱暴なことをしようとも、僕をかばい続けてくれた。あの温かい『壁』。あれは、誰かの背中だった。

「そうだ……。あれは……母さんじゃない」

 どんどんと記憶が鮮明になっていく。

 父が、声を上げ、目を充血させながら、僕を殴ろうとした時、母は、見ていたのだ。ただただ、それを見ていた。

 僕を守ってくれていた『壁』の隙間から、僕は、母を見ていた。

 母は、まるでつまらない番組でも見ているみたいに、感情のない目で、こちらを見ていた。

 まるで、モノクロの映像に色がついていくかのように、記憶はどんどん鮮明になっていった。

 それなら、僕を守ってくれていたのは、いったい誰なのだろうか?

 僕は、急に頭が痛くなり手で押さえた。

 どんどん頭痛が激しくなっていく。

 頭の中も混乱していて、いったい何が起きているのかさっぱり分からなかった。

 僕は、とりあえず考えることを止めた。

 それから、ベッドに入って眠ろうと思ったが、頭痛はひどくなる一方で、このまま頭が破裂してしまうのではないかと思った。

 結局、なかなか寝付くことができなかった。



 朝、目が覚めると、頭痛は収まっていたものの、昨日に引き続き、重度の寝不足だった。頭痛がして寝ることができなかったのだ。

 ほんとうは、ずっとベッドの中に居たい気分だったが、起きなくてはいけない時間になっていた。

 ベッドから出て、お湯を沸かし、コーヒーを淹れた。

 熱いコーヒーを一口飲むと、少しは目が覚めたような気がしたが、その代わりに、吐き気がした。寝不足が続いているせいかもしれない。

 いつものように着替えようとタンスを空けると、シャツが残り一枚しかなかった。そういえば、最近洗濯ができていない。今日、帰ってきたら洗濯をしなくてはいけないと頭の中でメモをした。

 とりあえず、服を着替えると、すでに家を出なくて行けない時間になっていた。正確に言うと、いつもより十分ほど遅れている。

 車に乗り込みエンジンをかけた。体が自分の物とは思えないほどに重たく、なかなかアクセルを踏む気になれない。カーラジオをかけてから、一度、車を降りた。すぐ目の前の自販機で缶コーヒーを買い、車に戻った。一口、苦いコーヒーを飲んでから、アクセルを踏んだ。こうでもしないと事故を起こしてしまいそうだった。

 お店に着くと、まだ、看板やのぼりが外に出ていない。開店の準備はできてないようだった。開店までそれほど時間がない。誰も出勤していないのかもしれないと思いながら、中に入ると、話し声が聞こえてきた。どうやら、出勤はしているみたいだ。それなら、開店準備をしてくれてもいいのにと思いながら、スタッフルームに入ると、どこかいつもと雰囲気が違った。

 なんだか騒がしい。

「西田くん!」

 飯田さんだった。慌てている様子で、「大変なことになった」と言った。

「どうしたんですか?」

「いや、それがね……。今朝発覚したんだけど、金庫のお金が、全部ないんだ」

「え? ほんとですか?」

 僕も、金庫を開けて確認したが、確かにあるはずのお金がなく、そこにはレジの合い鍵だけが入っていた。

「昨日の締めは……飯田さんでしたよね?」

「そうだよ。僕は確かに、レジのお金を金庫に入れて、昨日退勤したんだ。それで、朝、僕が出勤して、今日も店長休みだからってことで、僕が代わりに金庫を開けたところ、こんな状態だった」

「強盗ですかね?」

「かもしれない」

 僕は、時計を見た。

 開店十分前だ。

「とりあえず。みんなは、開店の準備をお願いします。飯田さんもお願いしていいですか?」

 出勤していた二人の学生アルバイトが、「はい」といい返事をして開店の準備に取り掛かってくれた。

「しかし……。どうしたらいいかな……」

「とりあえず、僕が、本部へ連絡します。それから、この部屋には監視カメラが付いてますので、すぐに犯人は特定できます」

「そっか」

「飯田さんは、とりあえず、お店の方をお願いしてもいいですか?」

「わかった! じゃあ、後は頼むよ。西田君」

 僕は、デスクの上の受話器を手に取り、本部へ電話をかけた。

 コール音が何度も鳴る。

 そんな中、ある嫌な予感していた。

口に出すのも嫌になるような予感だ。

 どうかその予感が、取り越し苦労であってくれと、僕は願った。

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