#18
仕事が終わり車に乗り込むと、時刻は夕方の六時だった。今日は仕事がスムーズに進み、残業をしなくて済んだ。
橋本さんとの、約束までは少し時間の余裕があり、僕は途中コンビニに立ち寄り、コーヒーとマンガ雑誌を買った。車の中で、マンガ雑誌をめくりながらコーヒーを飲んだ。
ゆっくりと息をつくと、疲れが抜けていくような感覚があった。ひさびさにリラックスできる時間だった。
この時間は一時間にも満たない時間だったが、まるで久々に息継ぎをしたような気分になった。よく考えれば、ここ最近、いろいろことが起こり気持ちが落ち着く暇がなかった。
もしかするとこういう時間が僕にはもっと必要なのかもしれない。
一息ついて、車を発進させた。
僕がファミレスに着くと、橋本さんは到着していたようで店の前で待っていた。グレーのコートを着ていたが、なぜだか寒そうな印象を受けた。髪の毛は仕事の時のように後ろで縛っていたが、まるで深夜にコンビニへ出かける時のように、とりあえずまとめたような印象だった。
「すみません。待ちましたか?」
「そんなことないよ」
橋本さんの表情は、あきらかにいつもとは違った。周りの人までも明るくしてしまうようないつもの橋本さんではなかった。目の下には隈があり、目が腫れている。どっさりと疲労をしょい込んでいるように見えた。
「とりあえず、入りますか?」
僕は席につくとメニューを開いて、橋本さんに差し出した。
橋本さんは、メニュー表を見ようとはせずに、ただ俯いていた。
「ごめんね。急に誘っちゃって」
「いえ、特に予定もないので」
「それに……」
橋本さんは、言葉をかみ殺しているみたいに、下唇と噛んだ。
「それから、昨日は、ほんとにごめん……」
「気にしないでください。こちらこそ、割り込んでしまって、すみませんでした」
「いいの……。むしろ感謝してる。西田君が来てくれなかったら、もしかしたら、顔に痣ができちゃってたかもしれない……。雄二さんって、時々手が出るの……」
「橋本さんこそ、大丈夫ですか?」
橋本さんは、顔を上げてこちらを見た。
「どうして大丈夫って聞くの?」
僕は、その言葉に心臓をつつかれたような気分になり、口をつぐんだ。
「ごめんね……。なんか私、もう、ちょっと…‥‥」
橋本さんは、奥から出てきそうな言葉を出しきれずに、頭を抱えた。
しばらく、僕たちは沈黙した。
そして、長い沈黙の後、橋本さんが話し始めた。
「私ね。小さい頃に両親を亡くしているの。確か、西田君もお父さんを亡くしているんだよね」
「そうですね」
「だからかな。西田君にはなんでも話せる気がする……。私は、ずっとおばあちゃんに育てられてきたの。おばあちゃんはやさしくて、とても温かい人で、私は十分に愛情を持って育てられたと思う。お母さんのようでもあり、お父さんのようでもあった。だけど、ずっと、周りの人がうらやましかった……。両親がいることもそうだけど、周りの人は、なんでも持っているように見えたの。おばあちゃんは腰が悪くて、あまり出歩くことができない人だったから、遠出して遊びに行ったり、ショッピングモールに買い物に行ったりした記憶はほとんどない。なんだか、周りの人を見ていると、自分がとてつもなく不幸な人のように思えた。だけど、それを口にすることは、絶対しちゃいけない、って思ってたの……。だって、私のことを大事にしてくれているおばあちゃんを否定してしまうような感じがしたから。自分が不幸だなんて、口が裂けても言えなかった。こんな気持ち……わかってくれる?」
「分かります……。多分、僕も同じです」
僕は、これで何度目かと思った。橋本さんの心の奥にある暗い部分に触れる度に、僕と同じだと、感じる。
「私は、別に、だからってわけじゃないけど……。でもたぶん、ずっと抑えてきた気持ちを誰かに話したくて、誰かに分かってもらいたくて、それで、男の人にすがったんだと思う。たまたま、それが雄二さんだった」
僕は、黙って橋本さんの話に耳を傾けた。
「だけど、結局、満たされることなんかなくて、ただただ何かが足りないって気づかされるだけで、ゴールのない迷路をさまよっているような感じだった。でも、当たり前よね。満たされないも何も、自分が何を欲しがっているのかさえ、よくわかっていないんだもの。こんなことになって当たり前だよね」
「それでも、これまでの事全てに意味がなかったとは思えないです」
僕は、言った。
「そうかな?」
「きっと、そうですよ」
「そうだと、いいけどね」
「橋本さん、これからどうするんですか?」
「そうだね……」
橋本さんは、数秒沈黙した。言葉を吟味しているかのようだった。
「今日ね。私の方から、雄二さんに『別れよう』って言ったの」
「……そうなんですね」
「そしたら、二つ返事で了承してくれた。『仕事はどうするのか?』だってさ」
僕は、話を聞いているだけでも、店長に対しての怒りが湧き上がってきた。
「なんかさ、一瞬で気持ちが冷めたっていうか……」橋本さんが言った。「怒りに変わったの。すごく腹が立った。たぶん、私はあの人のことを一生許せないと思う」
橋本さんの表情からは、悲しさや苦しさは感じなかった。何かを決心しているような表情だった。
「ひどいですね。ほんとに」
「ほんとに、ひどい話……。ごめんね。こんな話、聞かせちゃって」
「いいんですよ。辛いことは話してください」
「やさしいね。西田君は」
「橋本さんは、仕事を辞めるんですか?」
「……そのつもり」
「そうですか……。なんか、ほんとに、不公平だなって思います」
僕は、橋本さんの話を聞いて、やるせない気持ちになっていた。
「不公平? どうして?」
「だって、そうじゃないですか? 橋本さんは、何か悪いことをしたわけじゃないのに、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんですかね?」
「してるよ。悪いこと」
「そんなことないですよ」
「不倫は悪いことだよ」
「でも、それは店長も一緒なはず」
「そもそも、私が、雄二さんと関係を持たなければよかった話だし、私には、天罰が下って当然だと思う」
「それが、不公平だって言ってるんですよ。橋本さんが一番嫌な思いをして、店長だけは何もなく終わるんですか? そんなのって、あんまりですよ」
橋本さんは、うっすらと笑った。
「ありがとう。西田君にそう言ってもらえると、救われるよ。だけどね。不公平っていうのは少し違うかもしれない」
「どういうことですか?」
橋本さんは、さっきまでの表情とは打って変わって、力強い視線で、僕の目を見ていた。
「もしかしたら、雄二さんにだって、何か罰が下るかもしれない」
僕は、予想外な言葉に息を飲んだ。それに、橋本さんの力強い視線に目を離せなくなった。
さっきまでは、橋本さんの言葉を聞き、深く共感し同調していた。しかし、急に橋本さんが何を言おうとしているか、何を考えているか分からなくなってしまった。
もっと言葉を重ねれば、橋本さんの真意を聞き出すことが出来るかもしれないとは思った。しかし、やはり僕は沈黙を選んだ。
数十秒の沈黙の後、橋本さんは「お腹空いたよね? 何か食べよう」と言って、メニュー表に視線と落とした。
僕もつられてメニュー表の上に視線を泳がせた。
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