#17

 仮面の男が部屋を出ていった後、僕は、椅子に座り茫然としていた。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、なかなか整理がつかなかった。自分の身にいったい何が起きているのか、理解ができない。

それから、僕は、ふと思い出したように時計を見た。

 七時十五分になろうとしていた。

 仕事へ行かなくては、と思った。まずシャワーを浴びようと立ち上がった時、立ちくらみがした。頭の血が下に下がっていくような感覚。視界がぼやけ、自分が立っているのかさえ分からなくなった。しかし、立ちくらみはすぐに収まった。

 疲れているのかもしれない、と僕は思った。まあ、当然と言えば当然だ。最近、寝れない日が続いていたし、何より、ちゃんとした休みをもらえた日が、すでに記憶の彼方だった。

 今日は、休みをもらおうかとも考えたが、昨日の店長と橋本さんのやり取りを思い出した。あんなことがあった次の日なんだから、ほぼ確実に店長は欠勤するだろう。そういう人だ。そうなるとお店が回らなくなる可能性がある。

 僕は、結局は、出勤することにした。

 とりあえず、シャワーを浴び、仕事着に着替えた。それからコーヒーをもう一杯飲んで、家を出た。

 体調は、今までにないくらい最低だ。

 まるで徹夜をした後のようだった。それもそのはずで、仮面の男に変な吹き矢で眠らされた数時間だけで、実質ほとんど寝ていない。かと言って、今すぐに寝ようとしても寝れないような気もした。

 昨日の現実離れした出来事に、脳が興奮状態なのか、あるいは、疲れすぎているのか。

 僕は、車に乗り込みエンジンをかけた。

 仮面の男が言っていたことが理解できるような気がした。

 確かに、僕はいつ死んでもおかしくないのかもしれない。ピンと張り詰めた糸が切れるように、膨らみすぎた風船がパンとはじけるように、小さな針のようにささいなきっかけで、はじけてしまうのかもしれない。

 僕は、車を走らせながら、突然、底の知れない恐怖を感じた。



 お店につくと、すでにパート職員が出勤していた。

「あ、西田さん。よかった」パート職員の早川さんが安堵した表情を浮かべ言った。「心配したよ。なんか店長も休みだって言うし。西田さんもなかなか来ないからどうなっちゃうかと思った」

 予想通り、店長は休みだった。

「そんな、別に僕がいなくても大丈夫ですよ」

「いやいや、西田君がいないと、私が、この中で一番ベテランになっちゃうじゃない」

 早番の出勤者は、早川さん以外は学生アルバイトの北村さんと、最近入ったパートの女性職員だった。

「西田さんは来てくれると思ってましたよ!」

 北村さんが言った。

「北村ちゃんじゃ頼りにならないでしょ?」

 早川さんが、冗談めかして言った。

 北村さんは「ひどいじゃないですか!」と早川さんに食ってかかった。

 僕は、シフトの確認をした後、開店準備の指示をした。みんなは、嫌そうにしながらも作業に取り掛かってくれた。

 開店の準備が終わると、簡単に朝礼を済ませ、みんなそれぞれの持ち場についた。

 八時ちょうど。

 お店のドアが開き、いつものように出勤前のサラリーマンや大学生、このお店で朝食をとるのが日課になっている散歩帰りのお年寄り、様々な客が店に入ってきた。

 相変わらず忙しかったが、不思議と今日は、寝不足な割には体が動いた。特別支障はなかった。淡々と作業をこなした。

 順調に仕事をこなし、お昼のピークを過ぎて、早番と遅番のスタッフが後退するころ、休憩に入った。

 休憩室の椅子に座ってみると、一気に疲労感が噴き出てきた。

 それでも、そこまで嫌な気分ではなかった。むしろ、特に問題なく仕事が進んでいる充実感を多少感じていた。

 お茶を飲みながら、スマートフォンを確認すると、橋本さんからラインが来ていた。


 ――昨日は、ごめん。今日って、仕事終わりに少し話せたりする?


 本音を言えば、今日は帰ってすぐに眠りたい気分だったが、昨日のこともあり、橋本さんを放っておく気にもなれなかった。

 僕は、橋本さんと、仕事終わりに駅近くのファミレスで会う約束をした。

 休憩中座りながらうとうとしていると、飯田さんが出勤してきた。

「やあ。今日も眠そうだね」

 飯田さんが言った。相変わらず、明るい声だった。

「すみません。なんか最近眠れてなくて」

「昨日たいへんだったからね。お母さん、大丈夫だった?」

「あ、はい。昨日はありがとうございました。おかげさまで、母も特に問題なく。ただ転んだだけみたいなんで、様子見で数日入院して、すぐ退院するそうです」

「そっか、それはなにより。まあ、こんな時だからさ、お母さんのそばにいてあげなよ」

「はい。ありがとうございます」

「そういえば、店長は? ホールにもいなかったみたいだけど……」

「今日、休みです」

「あ、そうなんだ」

 飯田さんは、そう言いながら、カバンからペットボトルのお茶を取り出すと冷蔵庫にしまった。

「何かありましたか?」

「いや、まあ、実は昨日ちょっと店長と言い合いをしちゃってね。ちょっと気まずいな、なんて思ってたからさ。少し、店長と話したかったんだよね」

 飯田さんは申し訳なさそうに笑った。

「そうなんですか? 飯田さんが珍しいですね」

「まあね」

「それって、僕が早退した後ですよね?」

「そうそう」

「何かトラブルがあったんですか?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど……」

 飯田さんは、どうも歯切れが悪い様子で、言葉を濁していた。

「どうしたんですか? 何かあったなら、教えてくれませんか?」

 僕は、少ししつこいかなとは思いつつも食い下がった。いつもお世話になっている飯田さんのことなので、どうしても聞いておきたかったのだ。

「そうだね……。まあ、じゃあ一応話すけど、あんまり気にしないでくれる? あくまで、僕と店長との問題だからさ」

「……はい」

「その、西田君が帰った後に、僕が店長に西田君が早退したことを伝えたわけ」飯田さんは、申し訳なさそうに話し始めた。「そしたら、なんか店長が怒っちゃってさ。他のスタッフに当たるは、ごみ箱蹴ったりするわ。最悪だったのよ」

「……そんなことがあったんですね。すみませんでした」

「違う違う。西田君は何も悪くないよ。だってお母さんが病院へ運ばれて、早退しないわけにいかないじゃん」

「……そうですけど」

「いや、ほんとにその店長の様子に頭来ちゃって、思わず言っちゃんだよね。西田君に頼りすぎだ、てさ。それから、結構言い合いになってね……」

 飯田さんは、カバンから栄養ドリンクを取り出して飲んだ。

「たぶんさ。店長、私生活がうまくいってないのかな」

「どうしてですか?」

 僕は、昨日の夜の出来事を思い出していた。

「なんか、昨日の様子とか見てるとさ、怒る場所を探しているというか、怒りを職場にぶつけているような気がしたんだよね。店長って最近、特に変じゃない?」

「そうですかね……。前からのような気もしますけど」

「でもね……あんな感じだと、西田君みたいな立場の人がどんどん追い込まれちゃうからね」

 飯田さんが僕の肩をつかんだ。

「僕からも店長に働きかけていくからさ。一緒に頑張ろう」

「ほんと、いつもありがとうございます」

「だけど、無理はしないで」

「……はい」

 休憩が終わり、僕と飯田さんは一緒にホールに入った。

 やはり、飯田さんがいると仕事がはかどった。おかげで、残業をせずに仕事を終えることができそうだ。

 僕が早退したせいで迷惑をかけてしまったようで、申し訳ない気持ちにもなったが、僕のことをかばい、飯田さんが店長に指摘してくれたことは純粋にうれしかった。

 仮面の男は僕が「死に追い込まれている」と言った。

 きっと、僕を追い込んできたものは、「この職場」なのだと思う。しかし、そんな職場にも飯田さんのように、味方になってくれる人がいるのもまた事実だ。

 仕事をしながら、今朝出勤する前よりも幾分元気を取り戻していることに気がついた。

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