#16
「あなたは、自分を押し殺すために、知らぬ間に仮面をつけていたのです」
仮面の男は、話をしながら、大きな銀色のアタッシュケースをテーブルの上に置いた。
「そして、自分では気づかないうちにどんどんと追い込まれていった。そういう人は、割と多いです。西田さんのように、追い込まれていることに気がつくことができない。どんなに辛くても、心のどこかで『大丈夫』と思っている。後は、きっかけだけなんです。それも、大きなきっかけでなくてもいい。ちょっとしたきっかけで、限界に達し、パチンと糸が切れる。気がつけば、ビルから飛び降りている。あるいは、大量の薬を飲んでいる……。そういう人をたくさん見てきました。だからこそ、私は、西田さんを訪ねてきたのです」
男は、慣れた手つきでカチカチと施錠のダイヤルを回し、アタッシュケースを開けた。
その中には、男のつけているものと同じ仮面が入っていた。
「この仮面を、あなたに差し上げます」
僕は、思わず仮面の男を見た。仮面の穴から覗いている目は、鈍く光っている。
「でも、この仮面をつけたら……。死ぬんじゃ……」
「ある意味です。言い換えれば、これは、ある種の自殺です。しかし、それは肉体的な意味ではなく、情報としての『自殺』です。ただ、この世の全てから、解放されます」
僕は沈黙した。
「考えてもみてください。誰も自分のことを知らない。今まで自分がやってきたこと全てが忘れ去られ、チャラになる。本当の自由です。そのあとの残された時間は、何でもできます。もう苦しまなくて大丈夫です」
仮面の男は、アタッシュケースから仮面を取り出すと、僕に差し出してきた。
僕は、恐る恐るその仮面を手に取った。
想像していた以上に軽く、樹でできているとは思えなかった。表面は白く光って見えた。それも、反射して光っているのではなく、仮面がぼんやりと発光しているように見える。目と口の当たりはぽっかりと穴が開いていて、目元には黄色い隈があり、頬には点々とそばかすのような模様があった。裏返してみると、表面の白とは打って変わって、チカチカするくらいに鮮やかな赤色をしていた。
ほんのりと香ばしいような匂いがした。コーヒーの匂いに似ている気がする。
「赤の塗料には、芥子の花が練り込んであります」
「芥子の花って……」
「アヘンです。もちろん、非合法ですので、ご内密に」
しらばく、僕は仮面をしげしげと眺めた。
この仮面に対して、もちろん恐怖を感じた。しかし、それ以上に、得も言えぬ魅力を感じ、すっかりひきつけられていた。それは、まるでパッと見た時には気分を害しそうな、グロテスクな絵画を見た時の感覚に似ている。気味悪く感じ、見たことを後悔するような気持がありながらも、なぜか目を離すことができない。ともすれば、また見たいとさえ思っている。この仮面にも同じような魅力があった。
「もちろん、これは、人生最大の決断になるでしょう。なぜなら、この仮面は、一度つけたら外すことができません」
「一度つけたら、外せない……」
「そう。なので、慎重に考えてください」
仮面の男は、ティーカップをグイッと煽って、コーヒーを飲み干した。
「それに、まだ、説明できていない部分もとても多いです」
「他には、何があるんだ? 重大な副作用とか?」
「いえ、そう言ったものはございません。ただ、もちろん、この世から自分の情報が消えるということは、住所や名前、連絡先など、生活に必要なものもなくなってしまうということです。つまり、肉体的な意味での生命を維持する生活ができなくなります」
「それじゃあ……」
「でも、ご安心ください。
僕は、これまでの話を聞いて、完全に信じ切っていたわけでない。怪しいなという想いもありながら、ただ、彼の話に魅力を感じずにはいられなかった。別に、働かずに生活できるからではない。何より、僕が引かれたのは、『自由』という言葉だった。とにかく、今のままではいけないことが十分に理解できた。
「西田さん」仮面の男は両手で包み込むように、僕の手を握った。僕は、拒否することもなく、手を握られたまま彼の目を見た「また、来ます。考えてみてください」
「わかりました……」
僕の声は震えていた。
仮面の男は、僕からはぎ取った顔と、白く光る仮面を黒い布に包み、アタッシュケースにしまうと、立ち上がった。
玄関を見てみると、大きな革靴があった。
どうして、帰ってきた時に気がつかなかったのだろうと思った。
仮面の男は靴を履くと、振り返り言った。
「そうだ。西田さん。もしかすると、これから西田さん、いろいろなことを思い出していくかもしれない」
「……どういうことですか?」
「今の西田さんは、どんどんこちらの世界に近づいています。仮に、西田さんにとって近しい人物や、親しかった人が、こちらの世界にいるとしたら……。一度、世の中から忘却され、上書きされる前の情報に触れることがあるかもしれません」
僕はその話に、何か引っかかるものを感じた。
「別に、思い出すこと自体には、なんら問題はありません。ただ、それだけこちらの世界に近づいている証拠でもあります。しっかりと自分の行動を制御するように努めてください。衝動的に……なってしまえば、全てが水の泡です」
仮面の男の声は、だんだんと震えてきて、まるで涙をこらえているようだった。
「とにかく、辛くなったら、連絡をください」
仮面の男はそう言い残して、部屋を出ていった。
パタンとドアが閉まるのを確認し、振り返ると、そこはいつもの部屋だった。なんら変わりはない。まるで嘘のような時間だった。夢だったと言われた方がまだ納得がいく。
僕は、椅子に腰を下ろして、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲んだ。
現実離れした出来事を飲み込む事が出来ず、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
白昼夢でも見ているような気分だ。
しかし、確かにテーブルの上には、コーヒーカップが二つ、置いてあった。
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