#15

 目が覚めると、僕はベッドの中だった。

 上体を起こしあたりを確認する。特に変わった様子はない。どうやら、着替えもせずに眠ってしまったみたいで、ジーンズにワイシャツという恰好だった。

 疲れているのかもしれない、と思った。

 きっと仮面の男は夢だったのだ。

 あんなヘンテコな夢を見るなんて、相当まいっているのかもしれない。

 徐々に覚醒していく中で、窓がやさしく光っていることに気がついた。夜が明けてきているみたいだ。僕は、慌てて時間を確認しようと、ベッドから出ようとした。もしかすると、寝過ごしてしまったかもしれない。

 立ち上がろうとしたその時だった。

「お目覚めですか?」

 聞き馴染みのない声がした。

 僕の心臓は今にも飛び出していきそうだった。

「安心してください。まだ、朝方の六時です」

 声の方を向くと、仮面の男が立っていた。仮面をつけているので表情はわからないが、口元が笑っているのはわかった。

 僕は、思わず後退りして、ベッドに座り込んでしまった。

「そんなに慌てないで、先程ご挨拶しましたよね?」

「なんだよ……お前……」

「いいから」

 仮面の男が、母親が子供を黙らせる時のように、唇の前に指を立てて見せた。

「とにかく、落ち着いてください。先ほども言いましたが、私はあなたの味方です。今日は大事な話に来ました。とにかく、騒がないでください」

 男はそう言って、懐から名刺を取り出した。

 名刺を、そっとベッドの端に置くと、「自分は何もしません。とても安全です」と言わんばかりに、両手を挙げて見せた。

 僕は、仮面の男の動きに注意しながら、名刺を取った。名刺には、社名と名前が書かれていた。


 ――株式会社 工房コマンチズ 営業二課 タナカ


「初めまして。ジョン・ゲサツキ―です」

 男は言った。

「え?」

「いやいや、冗談です。私、タナカと申します」

「いったい、何なんだよ? 何をしに来た?」

「西田さん。いいですか? とにかく落ち着いてください。私はあなたの味方です。あなたを助けに来ました」

「なんで名前を知ってる?」

「名前も知らない人をわざわざ訪ねたりしませんよ」

 僕は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。

 恐怖は徐々に薄れ、仮面の男の言葉に耳を貸せるようになっていた。不思議なことに、そんなに危険な人物ではないように思えてきた。

「それじゃあ、もう一度聞くけど、何しに来た?」

 僕は言った。

「ありがとうございます」仮面の男は丁寧に頭を下げた。「ようやく、話を聞いて頂けるようですね」

 仮面の男は、そう言って、ニッコリと口角を上げた。

 僕は、黙って次の言葉を待った。

「こんなところで、立ち話もなんですので、リビングで話しませんか?」

 仮面の男はそう言うと、寝室から出ていった。

 僕も、仮面の男との距離を取りながら、リビングへ向かった。

「すみません。勝手に頂いちゃいますね」

 仮面の男は、食器棚からティーカップを二つ取り出すと、コーヒーを淹れた。いつの間にか、お湯は沸かしてあったみたいだ。

「これで、二杯目です」

 仮面の男は、「どうぞ」と言って、テーブルにコーヒーを置いた。

「人の家のものを勝手に使うなと、と言いたそうな顔をされていますね」

 仮面の男が言った。

「……まあ、いいよ」

 仮面の男は、にっこりと笑い、コーヒーをすすった。もっとも、仮面をしているので、口元以外の表情はわからない。

「さて、お話しをする前に、一つ西田さんにお聞きしたいことがあります」

 僕は、沈黙した。

「先日、私と同じような仮面をした二人組を見ませんでしたか?」

 不意打ちを食らったように、心臓が跳ねた。

 やっぱり、見てはいけないものだったのか?

 この目の前の男も口封じか何かで、訪ねてきたのかもしれない。

「え? 見たらどうなるんだよ?」

 平静を装おうとしたが、動揺が隠しきれず、言葉が震えていた。

「そんなに、動揺しないでください。別に、見たからと言って、何かをしようというわけではありません」

「何が、言いたい?」

「率直に申しますと、私も含め、この仮面をつけた人間を見たということは、西田さん、あなた、死にますよ」

 僕は、息を飲んだ。

「ご安心ください。私たちが、西田さんをどうこうするとか、そういった物騒な話ではございません。そうですね……。どこから話しましょうか……」

 仮面の男は、また一口コーヒーを啜った。

「実を言いますと、何を隠しましょう。私たちのような、この仮面をつけた人間は、ただの人間ではございません。なんと言うか……。そうですね……。死者、とでも言いましょうか。あるいは、死神のようなものです」

 僕は、眉をひそめた。何を言っているのだか、さっぱりわからない。

「この仮面」そう言って、男は、そう言って指先でコツコツと仮面を叩いた。「南アメリカか、または、アフリカか、コロンビアか、あるいは、ドイツにいる、魔術師だか、祈祷師だか、ジプシーとか呼ばれる、そう言った類の人達が、力を込めた樹でできています。この仮面には不思議な力があります」

 男は、何かを考えているようで、数秒止まった。

「ついて来れていますか?」

「信じてはいないけど、話は理解してる」

「なら、オーケーです。続けます」

 男は、コーヒーを啜った。

「もう一度言います。この仮面には、不思議な力があります。この仮面をつけると……死にます。あるいは、死んだも同然になります」

「なんだそれ」

「良い反応ですね」

「ふざけているのか?」

「いやいや、そういうわけでは……。西田さんが言いたいのは、私は仮面をつけているのに、死んでないじゃないか、ということですよね? では、一つ実験をしましょう」

 仮面の男は、スッとテーブルから立ち上がった。

 僕は、反射的に身構えた。

「そんなに、構えないでください。何もしませんから。西田さん。私を写真で撮ってみてください」

「なんで?」

「いいから、撮ってみてください。面白いものが見れますよ」

 僕は、しぶしぶテーブルの上に置いてあったスマートフォンを手に取り、写真アプリを立ち上げ、男にカメラを向けた。スマートフォンに写った画像を見て、僕は思わずスマートフォンを落としそうになった。とても信じられないことが起こったのだ。

「どういうことだ……」

「少しは信じてもらえました?」

「どうして、写らない?」

 スマートフォンのカメラ越しに男を見ると、男の姿がどこにもなく、男がいるはずの場所では、カゲロウのように若干空気が揺れているだけなのだ。

「これが、私が死んでいる証明です。ご理解いただけますか?」

 僕は、頭を抱えた。正直、何が起きているのかさっぱり分からなかった。

「もう少し、詳しく話しましょう。人間の死には、二つの種類があります。一つは、肉体的な死。そしてもう一つは、忘却の死。つまりは、忘れ去られるということです。この世の全てから忘れ去られ、自分という情報がなくなった時、もう一つの死を迎えます。そして、この仮面は、肉体的な死ではなく、忘却という名の死を与えるものです。この仮面をつけた瞬間に、そのものに関連する情報は全てこの世から消えます。そして、記憶の書き換えを持って、抹消するのです。つまり、この世に『私』という情報がないのです。だから、カメラにも映らない」

 僕は、気がつくと彼の言葉に聞き入っていた。

 最初は胡散臭く、新手の詐欺か新興宗教かなにかかと思っていたが、もしかすると、仮面の男が言っていることは、本当の事なのではないかと思い始めていた。

「さらには、普通の人には、『私』という存在を、認知することさえできません」

「じゃあ、なんで?」

「そこが問題なのです。西田さんは、私や、その他の仮面の人間を認知することができた。なぜか? それは、西田さんという存在が、死に近づいているからに、他ならないのです。仮面をつければつけたものの情報が全て『死』の世界へ行きます。肉体以外は。そのため、人が死に近づくにつれて、『死』の世界にある情報に近くなるのです」

「なんだか、よくわからないな……」

「やはり、にわかに信じがたいですよね。お気持ちは察します。西田さんは、高齢のおじいさんやおばあさんが、死期が近づいていく中で、全く聞き覚えのない人の名前を言うようになったり、それまで家族が知らなかったような思い出を語り出すことがあることはご存じですか?」

「……まあ、確か、僕の祖母も、知らない人の名前をつぶやいていたことはあった……。それが、その『死』の世界にある記憶ということなのか?」

「全部とはいいません。むしろほとんどのケースは認知症による妄想でしょう。しかし、中には、認知症によってではなく、死期が近づいたことで、『死』の世界にある情報を思い出した。というケースも、少なからずあります」

「まあ、わかったような。わからないような」

「とにかく、重要なことは、西田さんが、今、『死』の世界に近づいてしまっているということです。だからこそ、この世から失われた情報である、我々の姿が見える。我々の声が聞こえるのです」

 僕は、仮面の男の強い口調に、納得しかけていた。

 もしかしたら、本当に『死』の世界というものがあって、僕が『死』に近づいているからこそ、仮面の男が見えるのかもしれない。

 しかし、まだ、頭の一部は冷静だった。

「でも、僕に『死』が近づいているとは、思えないんだけど……。特に、病気をしているわけでもないし」

 仮面の男は、コーヒーを飲もうと持ち上げたティーカップをピタッと止めた。

 僕の言葉に、何か引っかかるものがあったみたいだ。

 コーヒーを飲まずに、ティーカップを静かに戻すと、言った。

「それは、本気でおっしゃっていますか?」

「……ああ。言った通りだよ。とても、自分が死ぬとは思えない」

「……そうですか」

 仮面の男は、俯き、静かに息を吐いた。

「これは、重症ですね」仮面の男が言った。「ご自分ではお気づきになられていないかもしれませんが、あなたは今、相当辛い状況にあるのではないですか?」

「辛い? そうかな……」

 確かに、言われてみれば辛い状況はいくつも思い浮かんだ。いつだってどこかへ行ってしまいたくなるような毎日だった。しかし、ある言葉が僕の頭に浮かんだ。

「まだマシな方……だと思う」

「なんと痛ましい……」

 仮面の男は、白々しく目頭を押さえる動作をした。

「西田さん……。少し驚かれるかもしれませんが、見せてあげます。あなたの現状を……」

 そう言うと、仮面の男は椅子から体を浮かせ、身を乗り出してきた。

「少し、我慢してくださいね」

 仮面の男は、おもむろに手を伸ばし、僕の顔を鷲づかみにした。

「何するんだよ!」

 男の手首をつかんだが、腕力はあちらの方が随分強く、腕を払いのけることができなかった。

 男は、鷲づかみにした顔をゆっくりと引っ張った。

 僕は、思わず目を閉じた。

 そこからは、不思議な感じがした。

 顔を引っ張られるというよりは、皮膚が引っ張られているような感覚。いや、皮膚とも違う。表面の何かがゆっくりと引っ張られている。そして、はぎ取られた。痛みはない。むしろ、後にはスッキリとした感覚が残った。まるで、一日中マスクをしていて、ようやく外したような感じだ。息をたくさん吸えるような気がした。

 目を開けると、僕は愕然とした。

 男の手には、僕の顔をかたどった仮面のようなものがあったのだ。

「西田さんも、私たちと同類です」仮面の男は言った。「仮面をつけているじゃありませんか。苦しかったでしょう?」

 無意識に息が荒くなっていた。

 何が起きてる?

 理解が追い付かない。

 男が手にしている『僕の顔』は、無表情で、冷たい顔をしていた。何も感じていないような、あるいは、我慢をしているような、そんな顔だった。

「今、あなたのつけていた仮面を取りました。これで、ようやく自分の現状に気がつけるはずです。鏡で、自分の顔を見て来てください」

 僕は、言われた通り、席を立ち、洗面所の鏡の前に立った。

 まるで自分ではないような顔がそこにはあった。いや、これが本当の自分なのかもしれないとも思った。

 鏡に映った顔は、明日にでも倒れてしまいそうなほど青く、穴が開いているかのように黒い隈があった。

 なんとも形容しがたい表情だった。肌の色は粘土のように鈍く、白目には赤い脈が浮き出ていて、唇も芥子の花のように真っ赤だった。どろりと溶けてしまいそうな表情。毛穴からアルコールが出るくらいに、酒を飲んだアル中に似ている。

 青白い顔。そばかす。真っ黒な隈。

 男の言う通りだと思った。

 まるで、あの怪しげな仮面を既につけているみたいじゃないか……。

 僕は、リビングに戻り、席についた。

 全身が震えているのが分かる。

「一口。コーヒーを飲んではいかがですか?」

 僕は、カップを両手でつかみ、ゆっくりと口に運んだ。

 コーヒーはすっかりぬるくなっていた。苦みだけが口に残り、気持ちが悪くなった。

「これは、いったい、何なんですか?」

 仮面の男は、しばらくの沈黙の後、口を開いた。

「最初に言いましたよね? 私は、あなたの味方です」

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