#14

「ごめん。怖かったよね?」

 助手席にぐったりした様子で座っている橋本さんが言った。

 結局、衰弱しきっている橋本さんを一人で帰らすわけにもいかず、送っていくことにした。

「いえ……大丈夫です」

「ほんとにごめん……ごめんなさい」

 橋本さんは、しきりに謝罪の言葉を繰り返した。そこには、僕にというよりは、自分に、あるいは世間に、もしくは自分を見ている誰かに向けて言っているようでもあった。

「大丈夫ですから、気にしないでください」

 ちらりと橋本さんを見ると、殴られたみたいに目が真っ赤に腫れていた。

「橋本さんこそ、大丈夫ですか?」

 自分で言っておいて、意地悪な質問だと思った。大丈夫なわけがないのだ。

「うん……」

 橋本さんは、質問に答えるわけでもなく、ただ頷いた。

 僕は、沈黙した。

 しばらくの間、車内に音らしい音が無くなり、耳がざわざわするくらいに静かになった。すれ違う車の音、ウィンカーの音、カーエアコンの音。普段は気にもとめない音がいやに大きく聞こえる。

「あのさ」

 橋本さんが口を開いた。

 その声は、まるでこそこそ話をしているかのように小さく、電波の悪いところで聞くラジオみたいに途切れ途切れだった。

「西田くんはさ」

「……はい」

「私のこと、どう思う?」

 僕は、チラッと橋本さんの様子を伺った。橋本さんは、焦点があっていないような目つきで、フロントガラスを見つめていた。

「どうって……どういうことですか?」

「私みたいな人の事をどう思う?」橋本さんは、ジッと前を見たまま話しをした。「三十歳をとうに過ぎて、ずっとフリーターをやってて、しかも不倫までしてる……。最低だと思う?」

「……そんなことないですよ」

「そんなことない? そんなわけないじゃん」

 橋本さんの声は震えていた。

「そんなわけ、ないよ……」

「橋本さん、落ち着いてください」

「なんか、もう……恥ずかしくて、死んでしまいそう」

 僕は、黙った。

 やはりこういう時には言葉を失ってしまう。

「迷路の中をさまよって、一つ一つ道を確かめてみたけど、全部行き止まりだったみたいな……そんな感じがするの……。結局、最初から道なんかなかったんだなって思った」

「橋本さん……」

「私……どうしよう」

橋本さんから、底の抜けたような絶望感を感じとった。

僕は、橋本さんに同情していた。

橋本さんの境遇を聞いた時に、「自業自得だ」と一蹴する人も中にはいることだろう。もちろん、僕も、橋本さんが既婚者である店長との関係をこれまで清算できずにいたことは、褒められたことではないことはわかっている。しかし、僕がなにより同情しているのは、世の中の不公平さに対してだ。橋本さんだって、最初から不倫をするような人生を望んできたわけでないはず。世の女性みんなが、強い意志を持ち、自分の未来を鑑みながら恋愛をしているわけではない。中にはそういう人もいるかもしれないが、ほとんどの人が違うだろう。たまたまサークルが一緒になった人、道端で声をかけてきた人、告白されたから付き合った。その程度で、恋愛が始まり、なんとなく付き合っていく中で、この人でいいかなと思い結婚をする。結局のところ、偶然ではないのか? 偶然出会い、偶然自分のことを好きになってくれた人が、良い人で、まともな人だっただけ。橋本さんにとって、その偶然の相手が既婚者である店長だった。

たったそれだけのことではないだろうか。

それだけで、こんなにも、世間とは差が開くのだ。

仕事にしてみても同じことだ。

みんなが同じように大学や高校を卒業した後に、就職をするが、その就職先が偶然ブラック企業だったとしたら、その先の人生を棒に振ってしまうかもしれない。就職した会社がすぐに倒産でもしたら、路頭に迷ってしまうこともあるかもしれない。

そんな現実を、「自分がちゃんと調べなかったからだ」とか、「就活をさぼったからだ」とか言う人もいるかもしれない。しかし、いったいどれだけの人が、そこまで真剣に就職活動をしただろうか? ほとんどの人が、『なんとなく』仕事を選んだのではないだろうか。そもそもどんなに調べたって、どんなにインターンに参加したって、実際に就職してみなければ、わからないことは山ほどある。

つまり、結局、全部偶然ではないだろうか。

誰もがみんな、偶然幸せになり、偶然不幸になる。偶然優秀な人になり、偶然落ちぶれるのだ。

そんな不公平さに、橋本さんは、巻き込まれてしまった。

それは、僕も例外ではない。

「仕方がなかったんですよ……」

 僕は、言った。

「……ありがとう」

 橋本さんは、そう言って、相変わらず焦点の合わない目つきで前を向いていた。その表情は、何も考えられないといったようでもあり、何かを決心しているようでもあった。

 橋本さんを家まで送り、自宅へ向かっている道中、時計を確認すると、深夜の一時になろうとしていた。思わずため息が出る。この数日間で、いったいどれだけのため息をついただろうか。もちろん明日も仕事。いっそのことこのまま、高速道路にでも乗って、どこか遠くへ行ってしまいたい気分だった。それができたらどんなに楽だろうか。

 僕は、まっすぐに家に帰った。橋本さんの家からはそれほど遠くはない。十分ほどで到着した。

 車から降りると、ある異変に気が付いた。

 僕の部屋の明かりがついていたのだ。

 内臓がざわざわするのを感じる。

 消し忘れたのか?

 いや、でも、ちゃんと消して部屋を出たような気もする……。

 空き巣でも入っているのかもしれないと嫌な妄想をしながら、おそるおそるドアノブに手をかけてみた。

 すると、ドアノブはスルリと回った。

 鍵がかかっていない?

 そんなはずはないと思う……。

 僕は、確かに、鍵を閉めて部屋を出て行った記憶があった。しかし、そこで、立ち止まることをしなかった。

 通常の思考だったら、怪しんで、躊躇して、警察なんかに連絡するかもしれない。しかし、この時僕は、正直疲れ切っていた。脳が動かず、まともに考えることもできず、ただただ、早く部屋に入って眠ってしまいたい一心だった。

 僕は、心の隅で「怪しいな」と思いながらも、ただ鍵をかけ忘れて、電気をつけたまま部屋を出てきただけ、と都合の良い考えにすがり、ドアを開けた。

 玄関に人の気配はない。

 僕は安堵していつも通り靴を脱いで、部屋に上がった。

 リビングのテーブルにカバンを置いた時だった。

「おかえりなさい。随分、遅かったですね」

 見知らぬ声がして、僕は体を硬直させた。

 なんだ? 誰かいるのか?

 僕は、ろくに思考もできないままに、ゆっくりと首を動かして、声のした方向を見た。

 そこには、スーツ姿の男がいた。

 それも、なんの不思議もないかのように、さも当たり前かのように、その男は立っている。あろうことか、右手にはコーヒーカップを持ち、そこから白い湯気が立ち昇っていた。

「まあ、驚きますよね?」

 男は言った。

 僕は、唇が震え、何も言葉にすることができない。

「すみません。急にお邪魔してしまって。でも、急用だったもので。まあ、驚かないでください」

 男は、淡々とした口調で、言った。それからコーヒーを啜った。

「……誰だ? ……なんなんだよ!」

 僕は、声を出すことで、どうにか体が動くようになり、近くにあった椅子を手に取って、スーツの男に投げつけようとした。

「まったく。大声出す人は嫌いだな」

 男は、面倒くさそうに、懐から縦笛のようなものを取り出して、吹き矢を吹くみたいにかまえると僕に向かって吹いた。いとも簡単に、小さな矢が僕の肩に刺さった。すると、急に全身の力が抜け、僕は手に持っていた椅子を床に落とした。

「なんだ……これ……」

 まるで骨を抜いたテントのように、ふにゃふにゃと僕はその場にへたり込んだ。足の先から指の先まで力が入らない。それに、睡眠薬を飲んだみたいに、視界がぐらぐらとゆがみ、今にも眠ってしまいそうだった。

「とりあえず、落ち着いてください。話はそれからです」男が言った。「一つだけ言っておきます。私は、あなたの味方です」

 僕は、薄れていく意識の中で思った。

 一体、なんだって言うんだ。最近、いろいろなことが起こり過ぎている。僕はただゆっくり休みたいだけなのに……。

 橋本さんの件で、本当にくたくたなのに、家に帰ったら変な男が待ち伏せしていて、休む暇もない。

 それに、状況が飲み込めない。

 目の前にいるスーツの男は何者だ?

 空き巣か? あるいは強盗か?

 僕の家にはそんなに金目のものはないはずだけど……。

 もしかして、このまま拉致でもされるのかもしれない。

 いろいろな考えが浮かび、感情は恐怖で満たされた。本当に、今日で僕は死ぬのかもしれない、と思った。

 そして何より、僕を恐怖させたのはスーツの男が、先日、地下の喫茶店で見た男たちと同じように、白い仮面をつけていたことだ。

 意識が途切れていく中、僕は、まるで月のようにぼんやりと光る、仮面を見ていた。

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