#13
《サンズ・カフェ》に着いてみると、まだ店内の明かりがついてた。
時刻は、十時二十分で閉店から二十分経っている。自分以外で、こんな時間まで残業する人がいるのは珍しいな、と思った。
もしかすると、僕が早退した後にトラブルでもあったのかもしれない。
車から出ると、外は想像以上に寒く、秋になったばかりだというのに、まるで真冬のような冷たい風が吹いていた。それに、これから雨でも降るのか、湿気をたっぷりと含んだ空気が体にまとわりついてきた。
僕は、お店の裏口に回り、職員用入り口から、中へ入った。
職員の休憩室から話し声が聞こえる。一人ではなく、複数人が残っているみたいだ。
今日は確か店長が一日勤務の日だったはず。もしかすると、誰かが店長の長い説教を受けているのかもしれない。
もしも、そんな入りづらい雰囲気だったら、すぐに引き返せるように、なるべく音をたてないようにゆっくりと廊下を歩いた。
休憩室のドアの前に立ち、ドアノブを掴もうとした時に、話し声が聞こえてきた。
「私の時間を返してよ!」
甲高く響く声だった。
何かを強く訴えかけるような言い方だった。
少しの間があり、気が付いた。
橋本さんだ。
「何が言いたいんだよ?」
男の声が応えた。
この声はすぐに分かった。店長だ。耳に触る嫌味な響きのある声だ。
「いい加減にしてよ!」
橋本さんが言った。
「どうしたんだよ急に」
「一体いつになったら、はっきりしてくれるの」
「だから、ちょっと待てよ。こっちにもいろいろとあるんだよ。離婚ってそんなに簡単にはできないんだよ。それくらいわかるだろ?」
「簡単にしろ、なんて言ってない。でも、もう五年も待った。簡単なことじゃなくても五年もかかるようなことなの?」
「……今、話し合ってるところだから」
「ほんとに?」
「……ほんとだよ」
「うそ」
「なんだ? 信じてないのか?」
「信じるわけないしょ? 馬鹿じゃないの」
僕は、状況を理解し、何も聞かなかったことにして、このままこの場を立ち去ろうと思った。ゆっくりと、音を立てないように降り返った。
その時だった。
ドンッと何かが壁に衝突するような音と同時に、小さな悲鳴が聞こえた。
「やめて!」
橋本さんが言った。声は震えていた。
「ごちゃごちゃとさっきから、なんなんだよ!」
「やめて。お願い!」
「だいたいお前だって、俺が結婚してるのは知っててのことだろうが。今さら、自分だけ被害者ぶってんじゃねえよ」
「痛い。痛いよ!」
「最初は、邪魔しないからとかなんとか言ってたよな。忘れたのか? 最近は、邪魔ばっかりしてるよな。どういうことなんだ?」
もう一度、ドンッと大きな音がした。
僕は思わずドアノブに手をかけていた。しかし、それ以上体は動かず、ドアを開けることができない。橋本さんが暴力を受けていることは想像ができた。助けに入りたいと思うが、人の喧嘩に口を出すのも悪いような気がした。それに、このドアを開ける勇気がなかなか出なかった。
激しい店長の怒号を聞き、父の姿を思い出していた。母の頭を脚で小突いていた父のことが脳裏に浮かんできた。僕の体は、小刻みに震えていた。
「ねえ。お願い。手を放して」
「どうなんだって聞いてるんだよ! ああ! 自分だけが被害者か? 自分は何も悪くないのか?」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「なんとか言えよ!」
僕は、このまま立ち去ってしまいたい気持ちを何とか抑え込んで、ドアノブを掴んでいた右手の手首を左で、強く抑え込んだ。右手がドアノブを離してしまわないように。
そして、ゆっくりとドアを開けた。僕の手が震えていたせいか、ドアがガタガタと鳴った。
「何してるんですか?」
僕は、言った。
店長は橋本さんの髪の毛を掴んで、頭を壁に押し合えていた。橋本さんは、店長の手を掴み、顔は涙でぐしゃぐしゃに崩れていた。
店長は、僕に気が付くと、驚いた表情を浮かべて、それから、ゆっくりと橋本さんの髪の毛から手を離した。
「お前こそ何してんだ?」
店長が言った。苛立ちをまったく隠すことのない言い方だった。
「あの、僕は、その、忘れ物を取りに来て」
「はあ?」
店長は、怪訝そうな顔をした。
「いや、だからその、忘れ物を取りに……」
「だったら、さっさとその忘れ物とやらを、取って帰れよ!」
僕は、思わず体をビクつかせた。
頭では、わかっていた。きっと、店長も嫌な所を見られて動揺しているのだろう。それを誤魔化すために、強い口調で話していることは理解ができた。しかし、僕の体は、その考えとは無関係に、硬直してしまっていた。怒鳴り声に歯向かってはいけないという教訓が、体の隅までしみこんでいるのだ。
店長が僕に気を取られている隙に、橋本さんが、店長の懐をすり抜けて、僕の背後に回り込んだ。
「西田君。ごめん。助けて……」
「おい。次はその男にすがるのか?」
店長が言った。
「店長、もう、やめましょう」
僕は、動かない喉をやっとの思いで絞り、言った。
そのため、声はまるで空気が入っていないみたいに張りがなく、か細かった。
「隠れてんじゃねえよ!」
店長は、そう言って椅子を蹴った。椅子はスライドするように一メートル程動き、倒れた。
橋本さんは、小さな悲鳴を上げた。
「……もうやめてよ」
店長がこちらに近づいてきたので、僕は、橋本さんとの間を塞ぐように店長の前に立った。
「なんだ? お前」
「店長。もう、やめましょう」
「関係ねえだろ? 首つっこむなよ」
「関係ないかもしれませんけど……」
「そんな奴かばうのか?」
「いや、店長……」
「西田。言っておくが、そんな女やめとけよ。俺が保証するわ」
橋本さんが、僕の背中でどんどん小さくなっていくのを感じた。店長の心無い言葉がまるでトンカチみたいに、ガンガンガンと強く橋本さんを叩いたのだ。
「ほんと、期待外れだったわ。嘘ばっかりついてよ。自分は悪くないみたいな顔しやがって。責任を全部俺になすりつけてきやがった」
しまいには、声を上げて泣き出してしまった。
「店長。もうやめましょう」
店長は、泣いている橋本さんを見て、舌打ちをした。
それから、「悪いけど、帰るわ」と言って机に置いてあったコートを手に取ると、僕と橋本さんの横をすり抜け、お店を出て行ってしまった。
その場に取り残された僕は、とりあえず、橋本さんが泣き止むまで待った。
時計を見る。十一時二十分。
こんな予定ではなかった。手帳を取りに来ただけで、余計なトラブルに巻き込まれてしまった。
橋本さんは、嗚咽をするほど泣きじゃくっていた。
「大丈夫ですか?」
一応聞いてみるが、橋本さんは返事をすることもなく、ただただ、泣いていた。
僕は、そんな橋本さんを見て、どうしてか気持ちを想像することができた。
それも、ぼんやりとではない。はっきりと、生々しく、実態を持つ感情として想像できた。
悲しいのだろう、と僕は思った。不倫相手に裏切られたことが、ではない。自分の今まで過ごしてきた時間が、正真正銘無駄になったからだ。きっとそうに違いない。一生懸命に生きてきたつもり。自分の中では理由のある行為だった。でも、いつの間にか取り返しのつかない状況になってしまっていた。それが、とにかく悲しいのだろう。
僕は、どうすることもできず、ただ黙っていた。掛ける言葉を探してみても、見つからず、そのうち僕は、言葉を探すことをあきらめていた。
結局、橋本さんが泣き止み、落ち着いた頃には、十二時になろうとしていた。
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