#12

 病院に母の着替えなどを届けた後、近くのファミリーレストランで、食事をすることにした。

 手続きや着替えを取りに行ったりしただけで、なんだかんだ既に日が暮れる時刻になっていた。仕事に戻ろうかと一瞬考えたが、明日もどうせ仕事なのだから、休ませてもらうことにした。念のため、飯田さんには、ラインで連絡を入れた。するとすぐに、「当たり前じゃん。疲れただろうから、今日はゆっくりしなよ」と返ってきた。

 僕は、ファミリーレストランで、パスタとチキンのサラダを食べながら、この後何をしようかと考えた。せっかくできた自由な時間に、このまま帰るのももったいないような気がした。

 結局、食事を終えると、漫画喫茶へ行くことにした。

 漫画喫茶は、ほど近いところにあり車を走らせると十分もしないうちに着いた。

 店内には落ち着いたジャズのような音楽が流れていて、誰もいないかのように静かだった。《サンズ・カフェ》とは違い、ゆっくりと落ち着ける雰囲気があった。

 僕は、ドリンクバーでコーラを淹れてから、何冊か適当に漫画を選ぶと、個室のブースに入った。リクライニングシートに深々と体が沈んでいくのが気持ち良かった。

 時計を確認すると七時の十分前だった。

 十時近くになったら出よう、と決めて、忘れないために、スマートフォンでアラームをセットした。

 それから、漫画を読もうと意気込んでページを開いたが、静かな空間が心地良かったせいか、あるいは、今日一日、母の入院でバタバタしていた疲れのせいか、いつの間にか眠っていた。

 僕は、夢を見た。

 夢では、僕は実家のアパートにいた。部屋には誰もいない。僕一人で、何もすることもなく、ただ床に座っている。何かをしようと思っても体が動かない。接着剤で床にくっついているみたいに、体を動かすことができなかった。

 かろうじて首を動かすことができた。

 あたりを見渡すが、誰もいない。部屋はとても静かで、どんな音もそこにはなかった。

 ふと、木製のテーブルの脚に視線が行く。

 なぜだか、そこから視線を話すことができない。

 じっと、見つめていると、テーブルの脚から、黒い小さな点が浮かび上がってきた。それは、まるで大量の蟻が巣穴から一気に出てきたみたいに、黒い点は一点から四方に広がり、そしてまた、何かを形作るように集合した。

それは、文字だった。

 ぐちゃぐちゃの文字で、一瞬では解読することが出来ない。

まるで子供の落書きのようだ。

「……くるま」

 数十秒かけてようやく解読できた。

 すると、今度は、テーブルの脚の数か所から同時に黒い小さな点が沸き上がって来て、様々な言葉を作っていった。「だいふく」「にんじん」「スーパーマン」といった具合にそれらは脈絡のない言葉だった。中には、文字ではなく、幾何学模様のようなものだったり、動物の絵のようなものだったりもした。いずれにしても、子供の落書きみたいだった。

 そして、僕はその文字を見ていて不思議な気持ちになっていた。

 それは、懐かしい気持ち。

 どこかで、見たことのある文字だと思った。

 とても独特で、汚い字ではあったが、どこか温かみを感じる。

 どんどん文字は増え続けた。テーブルだけでなく、床や壁、タンスやテレビなどにも文字が表れ始めた。そのうちに部屋中は文字で埋め尽くされていったが、僕はどうしてか落ち着いていた。普通ではあれば、部屋中が言葉で埋め尽くされていくその不可思議な様子を目の当たりにしたときに、恐怖や不気味さを感じることだろう。しかし、僕の心は、穏やかな感情で満たされていた。むしろ、誰かに守られているような安心感があった。

 その安心感のせいなのか、まぶたがどんどん重たくなり、視界が狭まっていった。ゆっくりゆっくりと視界がふさがれていく。まるで、劇場なんかで終幕後ゆっくりと下りてくるカーテンのように。

 そして、まぶたが最後まで下におり、視界が真っ暗になった。

 遠くから、ブーブーブーと何かが振動する音が聞こえる。

 そこで、目が覚めた。

 常夜灯のように柔らかいオレンジ色の光が目に飛び込んでくる。

 振動音の正体はスマートフォンのアラームだった。

 そうか、マンガ喫茶に来ていたんだ、と僕は思い出した。マンガを読むつもりが、寝てしまったのか。

 目の前には、開かれずに積み上げられたマンガと、まだ八分目以上コーラで満たされているグラスが置かれていた。

 目と喉が異様に乾いていた。痛いくらいだった。

 僕は、一口コーラを飲んだ。

 それから、アラームを止めて、時間を確認した。

 九時五十分。

 もう出なくてはいけない時間だ。僕は、コーラを飲み干してから、マンガとグラスを返却し、会計を済ませた。

 外に出てみると、すっかり暗くなっていた。

 一瞬、とても勿体ないことをしたような気持ちになったが、マンガも読めないくらいに疲れていたのだろう、と思った。むしろ、三時間でも眠れたことは、良かったのかもしれない。

 駐車場にある自動販売機で、缶コーヒーを買い、車に乗り込んだ。

 エンジンをかけて、甘いコーヒーを一口飲んだ。

 先ほど見た夢を思い出していた。異様な夢ではあったが、不思議と嫌な気分ではない。

 なんだか、最近、おかしなことが身の回りで起きているような気がする。

 廃墟ビル地下二階の喫茶店、仮面の二人組、ゲームカセットに書かれた知らない人の名前――これに限っては気のせいだとは思う。

 その時、パズルのピースがスッとハマるように、ある考えが浮かんできた。

 夢の中で見た文字、ゲームカセットに書かれていた文字。僕は、あの独特な文字を見た時に、どこか見覚えがあるように感じた。

「そうだ。手帳に書かれていた文字に、似ていたんだ」

 僕は、妙な好奇心から、手帳の文字を確認するために、鞄を開けた。

 しかし、いつも入れているはずの手帳がない。

 鞄の中身を全て出して確認してみたが、やはり手帳は見当たらなかった。

 少し考えると、すぐに思い出した。

 手帳を職場に忘れてきたのだ。

 あの時、急いで出てきたものだから、スタッフルームのテーブルに置きっぱなしにしてきたのだ。

 出した鞄の中身を鞄に入れ直し、それから缶コーヒーを一口飲んだ。

 このまま帰ってシャワーを浴びてからビールでも飲んで寝る方が、明日の仕事にも響かないし、良いのだろう。しかし、今は、強い好奇心から、職場へ手帳を取りに行きたい気分になっていた。

 家までの通り道ではあるし、それにお店も、もう閉まっているから邪魔にもならないだろう。もしも飯田さんがまだいれば、今日のお礼も言えるかもしれない。

 あれこれと理由を用意している自分に気が付いた。結局のところ、好奇心が勝ったということだ。

 僕は、《サンズ・カフェ》に向かって車を走らせた。

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