#11

 病院に着くと、入院の手続きなどのうんぬんかんぬんで、終わらないのではないかと思うくらいに長々と話をされた。

 そして何枚もの書類にサインし、印鑑を押した。

 すべての手続きを終えて、病室へ行くと、母がベッドの上で週刊誌をパラパラめくっていた。左手にはギプスをしているので、右手だけを使い、ぎこちない手つきだった。

母親は、六十五歳になったばかりだったが、見た目は、それよりも老けて見えた。手には深いシワが無数にあり、髪の毛の半分以上が白くなっていた。下手をすると八十歳以上に見えるかもしれない。

「悪いね。恭平」

 母が言った。

「いいけどさ」

「仕事だったの?」

「うん」

 母は、読み捨てられたような週刊誌をパラパラとめくっていて、こちらを見ようとはしなかった。

 僕は母が苦手だ。

 父親が事故で無くなってから、僕にとっては、唯一の肉親ではあるが、あまり会う気にはなれなかった。何か用事がなければ、ほとんど実家にも帰えらない。今、こうして母を見るのも、数年ぶりだった。

 たまに実家に帰った時などには、母はボーっとしていて、何を考えているのか分からないような表情で、テレビを見たり、雑誌を読んだりしていた。久しぶりに僕が実家に帰ったからと言って、最近の様子などを気に掛けることもなく、邪険に扱うわけでもなく、ただ、そこにいるという感じだった。どうせなら、邪険にされた方がせいせいするのではないかと思ったこともあった。

 僕にとって母は、得体のしれない、近寄りがたい存在だった。

「怪我は、大丈夫なの?」

 僕は言った。

「まあね。でも、転んだだけで骨を折るなんて、私も歳なんだね」

 母はそう言って、小さくため息をついた。

「今日から、入院なんだってね。着替えとか持ってくるけど、他に何か持ってくるものある?」

「そうだね……」

 母はそう言って、沈黙した。

 僕の質問に対して考えている様子はなく、ただ体が固まったみたいだった。

 病室は、独特の甘いにおいがして、気分が悪くなりそうだった。もしも、この沈黙が五分も続いたなら、本当に吐き出してしまったかもしれない。

 しかし、僕が吐き出す前に、母が口を開いた。

「そうしたら、家にまだあったら、白いゲーム機を持って来てくれる?」

「ゲーム機?」

「そう。あの、ほら、あんたらが昔、夢中になってやっていた」

 僕は、その時ふとある記憶が浮かんだ。小さいときに、白いゲームボーイを母に買ってもらい、自分がお小遣いを貯めて買ったソフトには、取られないように、油性ペンで「きょうへい」と名前を書いたのだ。

 今考えればおかしな話だ。僕は一人っ子で、ソフトを奪う人などいないのに、名前を書いていたのだから。

「ゲームボーイね」

「そうそう」

「なんで、また」

「なんか、私もやってみようかなと思ってね」

「ああ、そう。たぶん動かないけどね。探してみるよ」

 僕は、そう言って病室を出た。

 母とこんなにまともに話したのは、本当に久しぶりだった。母の声は、弱々しく病人のようで、骨折で入院している人とは思えなかった。

 車で実家に向かっている途中、懐かしい気分になっていた。実家に戻るのは数年ぶりだし、さっき母と話をしていて、昔のことを思い出したからかもしれない。

 幼少期の記憶のほとんどは父に手をあげられていた恐怖で埋め尽くされていたが、それでも、少しは楽しかったような記憶もあった。

 友達も少なく、家にいることが多かった僕は、良くゲームをしていた。父が帰ってくるまでの間だけ許された唯一の楽しみだった。時々は、母も一緒になってやってくれた。

 まるで、栓が抜けたみたいに、昔の記憶どんどんと湧き出てきて、僕の頭の中を満たしていった。悪い気分ではなった。

 そんな中、あることが気になった。

 僕は、母以外の誰かともゲームをしていたような記憶があることに気が付いたのだ。

 そうだ。確かに、僕はゲームを一人ではなく誰かと楽しんでいた。父親か? いや、父はゲームを毛嫌いしていた人だから、ありえないだろう。母親でもない誰かと一緒に、ゲームしていた記憶。それは、とても楽しい時間だったような気がする。

 あれこれと記憶を探ってみたが、思い出すことはできなかった。

 そうこうしているうちに、実家に着いた。

 僕の実家は、築五十年を超えた古ぼけた団地で、母はそこに三十年以上住んでいる。最近は、リノベーションをして、新しくなった団地なんかも増えてきたが、ここは昔のままだった。幼少期に遊んだ団地の敷地内にある小さな公園もそのままで、ブランコなどは、乗ったら壊れるのではないかと思うくらいに、錆びていた。

 部屋は、二階にあり、エレベーターがないので階段を上がらなければいけなかった。しかもその階段は一段一段が高くとても上りづらい。母にとって、この階段を上り下りすることも一苦労なのではないかと思った。

 部屋に入ると、洗剤と芳香剤が混ざったような、懐かしい匂いがした。

 実家に帰ってくると、いつも不思議に思う。母も洗剤や柔軟剤は毎回同じものを買っているわけではないはずなのに、部屋はいつも同じ匂いがする。

 部屋は、1LDKではあったが、リビングは六畳くらいの大きさで、広いとは言えなかった。寝室も五畳と小さめで、さらにはタンスや化粧台なんかも置かれていたので、余計に狭くなっていた。

 それなのに、部屋の中には、必要最低限のものしかなくガランとした印象を受けた。母が一人で暮らすには、大きすぎるくらいだったのかもしれない。

 僕は、部屋に上がるとまずタンスから下着などの衣類を出して、鞄に詰めた。歯ブラシや、綿棒、化粧水、ハンドクリームなど、衛生用品をそろえた。

 それから、母が欲しいと言ったゲームボーイを探したが、案の定、すぐには見つからず、押し入れや、タンスなどを開けてみたが、どこにも見当たらなかった。

 昔はテレビ台の引き出しにゲーム機などを閉まっていたことを思い出して、テレビ台の引き出しを開けた。

 すると、初代ゲームボーイのカセットが一枚だけ入っていた。箱やケースなどにも入っておらず裸の状態だった。さらに、表紙のシールがはがれていて、なんのゲームだかも分からなかった。

 僕は、何気なくそのゲームボーイのカセットを手に取った。

「ん?」

 カセットの裏側に、文字が書かれていた。

 思わず、僕は自分の目を疑ってしまった。


――しょうへい


 その文字は、油性ペンで書かれており、とても独特な字だった。小さなカセットには収まり切らず所々はみ出していて、まるで定規で書いたようにカクカクしていた。一瞬恐怖すら感じるような独特な文字だった。色あせていて、消え入りそうなほど薄くなってはいたが、それでも勢いを感じるほどだった。

「しょうへい……」

 この家にあるということは、僕の持っていたものだと思うが、そこには、知らない名前が書かれている。なんだろうか、これは。もしかすると、当時、遊んでいた誰かのものを持ってきてしまったのか? あるいは、僕が書き間違えたのか。

 僕は、不思議に思いながら、そのカセットを裏返したりして、眺めた。

 いったい誰だろう?

 しばらく、その場から動けなかったが、そのうちに、小さなころに友人からもらったものかもしれない、と思いなおして、ゲームボーイ探しを再開した。

 一時間くらいは、部屋中を見て回ったが、結局ゲームボーイは出てこなかった。

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走馬灯で会う日まで 佐田おさだ @sadaodasa

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